偉人

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曲直瀬道三

まなせ どうさん(1507-1594)
登場回数:3作

曲直瀬 道三(まなせ どうさん、永正4年9月18日(1507年10月23日) - 文禄3年1月4日(1594年2月23日))は、戦国時代から安土桃山時代の日本の医師。道三は号。諱は正盛(しょうせい/まさもり)または正慶(まさよし)。字は一渓。他に雖知苦斎(すいちくさい)、翠竹庵(すいちくあん)、啓迪庵(けいてきあん)など。本姓は元は源朝臣(宇多源氏)、のち橘朝臣。今大路家の祖。日本医学中興の祖として田代三喜・永田徳本などと並んで「医聖」と称される。養子に曲直瀬玄朔があり、後に2代目「道三」を襲名している。
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近衛忠房

このえ ただふさ(1838-1873)
登場回数:3作

近衛 忠房(このえ ただふさ)は、幕末期の公卿。官位は従一位・左大臣。号は光山。
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金栗四三

かなくり しそう(1891-1983)
登場回数:1作

金栗 四三(かなくり しそう、1891年〈明治24年〉8月20日 - 1983年〈昭和58年〉11月13日)は、日本のマラソン選手、学校教員。位階は従五位。青壮年期にオリンピックのマラソン競走に日本代表選手として参加し、また裏方としても各マラソン大会や東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)の開催に尽力したり、日本に高地トレーニングを導入するなど、日本マラソン界の発展に大きく寄与したことから「日本マラソンの父」と称される。
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九条兼実

くじょう かねざね(1149-1207)
登場回数:5作

九条 兼実(くじょう かねざね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原北家、関白・藤原忠通の六男。官位は従一位・摂政・関白・太政大臣。月輪殿、後法性寺殿とも呼ばれる。通称は後法性寺関白(ごほっしょうじ かんぱく)。五摂家の一つ、九条家の祖であり、かつその九条家から枝分かれした一条家と二条家の祖でもある。五摂家のうちこの3家を九条流という。 摂政・関白藤原忠通の六男。母は、家女房で太皇太后宮大進・藤原仲光の娘・加賀。同母兄弟4人の中の長子である。同母弟には、太政大臣となった兼房・天台座主となった慈円などが、また異母兄には近衛基実、松殿基房が、異母弟には興福寺別当となった信円らがいる。 兼実が40年間書き綴った日記『玉葉』は、当時の状況を知る上での一級史料となっている。
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熊坂長範

くまさか ちょうはん(?-?)
登場回数:2作

熊坂長範(くまさか ちょうはん)は、平安時代の伝説上の盗賊。
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桂久武

かつら ひさたけ(1830-1877)
登場回数:2作

桂 久武(かつら ひさたけ)は、幕末の薩摩藩士、政治家。島津氏分家・日置島津家当主の島津久風の五男。長兄は、第29代藩主・島津忠義の主席家老島津久徴(下総、左衛門)、次兄は、お由羅騒動で犠牲となった赤山靭負。
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建春門院中納言

けんしゅんもんいんちゅうなごん(1157-?)
登場回数:1作

建春門院中納言(けんしゅんもんいんちゅうなごん、保元2年(1157年) - 没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女房・歌人。藤原俊成の娘。母は美福門院加賀。藤原定家の同母姉にあたる。この一家の例に漏れず才媛であった。 通称は健御前(藤原定家『明月記』による)。 女房名は中納言。出家後は九条尼と呼ばれた。
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原田まさ

はらだ まさ(1848-1930)
登場回数:1作

原田 まさ(はらだ まさ、嘉永元年11月15日(1848年12月10日) - 昭和5年(1930年)5月29日)は、江戸時代末期(幕末)から昭和初期にかけての女性。新選組十番隊長・原田左之助の妻。旧名は、菅原まさ。
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源義賢

みなもと の よしかた(?-1155)
登場回数:1作

源 義賢(みなもと の よしかた)は、平安時代後期の武将。河内源氏、源為義の次男。源義朝の異母弟。源義仲(木曾義仲)の父。
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源仲章

みなもと の なかあきら(?-1219)
登場回数:2作

源 仲章(みなもと の なかあきら)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての貴族・御家人・儒学者。宇多源氏、左大臣・源雅信の後裔で、河内守・源光遠の子。官位は従四位上・文章博士。
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