偉人副島道正 そえじま みちまさ(1871-1948)登場回数:1作副島 道正(そえじま みちまさ、1871年11月26日〈明治4年10月14日〉 - 1948年〈昭和23年〉10月13日)は、明治から昭和期の華族、実業家、IOC委員。伯爵。 2020.09.01偉人
偉人福島越前守 くしま えちぜんのかみ(?-?)登場回数:1作福島 越前守(くしま えちぜんのかみ、生没年不詳)は、戦国時代の武将、今川氏の家臣。福島正成と同一人物する説もあるが、正成を大永元年(1521年)の飯田河原の戦いで戦死した福島助春と同一人物とする説もあり、その場合には助春(正成)没後に福島氏を継いだ人物の可能性もある。 今川氏輝のころに活動。氏輝の母・寿桂尼の側近だったらしく、天文5年(1536年)の花倉の乱で寿桂尼の説得を退けて他の福島一門とともに、外孫とされる玄広恵探を擁立した。その後、福島氏は恵探の異母弟・栴岳承芳と駿府で合戦に及ぶが、敗れて久能山に退却。以後の活動は明らかでない。 2020.09.01偉人
偉人平岡円四郎 ひらおか えんしろう(1822-1864)登場回数:4作平岡 円四郎(ひらおか えんしろう、1822年11月20日〈文政5年10月7日〉- 1864年7月19日〈元治元年6月16日〉)は、幕末期日本の武士(一橋家家臣・家老並)。徳川慶喜の小姓を務めた。諱は方中。攘夷派に暗殺された。 2020.09.01偉人
偉人平康頼 たいら の やすより(?-?)登場回数:4作平 康頼(たいら の やすより、久安2年(1146年)? - 承久2年(1220年))は、平安時代の武士。信濃権守・中原頼季の子。官位は六位・左衛門大尉。後白河法皇の近習として北面に仕える。平判官入道と称された。 2020.09.01偉人
偉人平重盛 たいら の しげもり(1138-1179)登場回数:3作平 重盛(たいら の しげもり)は、平安時代末期の武将・公卿。平清盛の嫡男。 保元・平治の乱で若き武将として父・清盛を助けて相次いで戦功を上げ、父の立身に伴って累進していき、最終的には左近衛大将、正二位内大臣にまで出世した。嫡男ではあったが継室の時子の子である宗盛や徳子とは母が異なり有力な外戚の庇護はなく、正室が藤原成親の妹・経子であったため、成親失脚後は一門のなかでは孤立気味であった。政治的には平氏一門の中で最も後白河法皇に近い立場にあった。清盛の後継者として期待されながらも、清盛と後白河法皇の対立では有効な対策を取ることができないまま、父に先立ち病没した。 六波羅小松第に居を構えていたことから、小松殿ないし小松内大臣とも、またその邸宅に48の灯籠(灯篭)を建てていたことから灯籠大臣とも称された。 2020.09.01偉人
偉人平知康 たいら の ともやす(?-?)登場回数:4作平 知康(たいら の ともやす)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士。壱岐守・平知親の子。検非違使・左衛門尉。鼓の名手で鼓判官(つづみのほうがん)と呼ばれた。 2020.09.01偉人
偉人平野国臣 ひらの くにおみ(1828-1864)登場回数:3作平野 国臣(ひらの くにおみ)は、日本の武士・福岡藩士、志士。大蔵氏の流れをくむ。通称は次郎、巳之吉。諱は種言、種徳。変名に都甲楯彦、宮崎司、草香江水際、佐々木将監など。贈正四位。 2020.09.01偉人
偉人別府晋介 べっぷ しんすけ(1847-1877)登場回数:3作別府 晋介(べっぷ しんすけ、弘化4年(1847年)- 明治10年(1877年)9月24日)は、日本の武士(薩摩藩士)、陸軍軍人。 2020.09.01偉人
偉人宝樹院 ほうじゅいん(1621-1653)登場回数:2作宝樹院(ほうじゅいん、1621年(元和7年) - 1653年1月1日(承応元年12月2日))は、江戸幕府3代将軍徳川家光の側室、4代将軍徳川家綱の生母。娘時代の名前はお蘭。側室名はお楽の方。別名、高島御前。 2020.09.01偉人
偉人豊臣秀吉 とよとみ ひでよし(1537-1598)登場回数:20作別名:木下藤吉郎/木下秀吉/羽柴秀吉/藤原秀吉豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、旧字体:豐臣 秀吉)は戦国時代から安土桃山時代の日本の武将、戦国大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。織田信長の後を継いで天下を統一し、近世封建社会の基礎を築いた。 尾張中村の木下弥右衛門の子。幼名は日吉丸(ひよしまる)。木下 藤吉郎(きのした とうきちろう)と称した。松下之綱の下男ついで織田信長に仕え、従来にはない斬新な奇策や政策で次第に頭角を現し、羽柴 秀吉(はしば ひでよし)に改名した。中国攻めの最中、信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると急ぎ毛利輝元と和解し京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った。柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破り、信長の後継の地位を固めた。大坂城を本拠とし、小牧・長久手の戦いで徳川家康を臣従させ、長宗我部元親を破り四国を平定した。関白、太政大臣となり、朝廷から豊臣の姓を賜った。島津義久を破り九州を平定し、政権を確立、刀狩令や海賊停止令を発した。北条氏を破り、関東、そして奥羽を平定し、天下統一を果たした。太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。その強力な権力・財政基盤をもとに聚楽第や方広寺大仏(京の大仏)などの豪華絢爛な建造物の造立にも着手し、桃山文化の発展に貢献した。晩年は明の征服を決意して朝鮮に出兵したが(文禄・慶長の役)、その最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。 2020.09.01偉人