偉人

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望月信雅

もちづき のぶまさ(1518-?)
登場回数:1作

望月 信雅(もちづき のぶまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。信濃国望月城主。
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北条氏康

ほうじょう うじやす(1515-1571)
登場回数:4作

北条 氏康(ほうじょう うじやす)は、戦国時代の武将。相模国の戦国大名。後北条氏第2代当主・北条氏綱の嫡男として生まれる。後北条氏第3代目当主。母は氏綱の正室の養珠院。姓名は平氏康。 関東から山内・扇谷両上杉氏を追うなど、外征に実績を残すと共に、武田氏・今川氏との間に甲相駿三国同盟を結んで関東を支配し、上杉謙信を退け、後世につながる民政制度を充実させるなど、政治的手腕も発揮した。後北条氏当主として19年間、隠居後も後継者である第4代当主北条氏政との共同統治を12年間続け、30年以上にわたって後北条氏を率いた。
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北条宗時

ほうじょう むねとき(?-1180)
登場回数:5作

北条 宗時(ほうじょう むねとき、? - 治承4年8月24日(1180年9月14日)は、平安時代末期の武将。父は北条時政。母は伊東入道の娘で、阿波局・北条義時の同母兄に当たる。異母妹弟に北条政子、北条時房ほか。通称は三郎。
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北条範貞

ほうじょう のりさだ(?-1333)
登場回数:1作

北条 範貞(ほうじょう のりさだ、生年不明 - 正慶2年/元弘3年5月22日(1333年7月4日))は、鎌倉時代後期の北条氏一門。 極楽寺流の支流・常盤流の当主で常葉範貞とも呼称される。父は北条時範、子に北条重高がいる。母は不明で、生年も未詳だが、北条貞時が得宗家当主であった期間内(1284年-1311年)に元服し、「貞」の偏諱を受けたとみられる。 嘉元2年(1304年)、従五位下、左近将監に叙位される。正和4年(1315年)、引付衆に任じられ幕政に参画する。翌5年(1316年)、従五位上に昇進。元応2年(1320年)には、評定衆に補充される。 元亨元年(1321年)、六波羅探題北方に任命され上洛し、元徳2年(1330年)、北条仲時と交替するまで9年間務めた。同年、帰還した鎌倉で三番引付頭人に就任した。この間、正中2年(1325年)に越後守、嘉暦3年(1328年)には正五位下、元徳元年(1329年)に駿河守に任ぜられている。 『太平記』によれば、正慶2年/元弘3年(1333年)の新田義貞による鎌倉攻めに際し、他の北条一族と共に自害して果てた(東勝寺合戦)。同じく『太平記』には、北条貞将と共に六波羅探題留任の要請を謝絶したこと、謀叛の廉で捕らえられた二条為明への尋問を行い、為明の披露した歌を聞き、無実であると裁定を下して釈放したことなどが記されている。 尚、歌人でもあり、勅撰集に三首歌が収録されている。
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牧野忠雅

まきの ただまさ(1799-1858)
登場回数:3作

牧野 忠雅(まきの ただまさ)は、越後長岡藩の第10代藩主。長岡藩系牧野家宗家11代。第9代藩主・牧野忠精の四男。老中となり海防掛担当。
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堀田正亮

ほった まさすけ(1712-1761)
登場回数:1作

堀田 正亮(ほった まさすけ)は、江戸時代中期の大名、老中首座。出羽国山形藩3代藩主、下総国佐倉藩初代藩主。官位は従四位下・侍従。正俊系堀田家5代。
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本庄秀綱

ほんじょう ひでつな(?-?)
登場回数:1作

本庄 秀綱(ほんじょう ひでつな)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。上杉氏の家臣。栃尾城主。
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摩阿姫

まあひめ(1572-1605)
登場回数:2作
別名:おまあ

摩阿姫(まあひめ、元亀3年(1572年) - 慶長10年10月13日 (1605年11月23日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の女性。前田利家の三女、側室の子ともいわれている。初め豊臣秀吉の側室になり、秀吉の死後万里小路充房の側室となる。名は摩阿・麻阿とも。通称は加賀殿(かがどの)。
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民部卿局

みんぶきょうのつぼね(?-?)
登場回数:2作

民部卿局 (みんぶきょうのつぼね、生没年不詳) は戦国時代から江戸時代初頭にかけての女性。崇源院(江)の乳母。民部卿局は大奥での局名で本名はわかっていない。民部卿、民部の局など呼び名は多数ある。
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明智秀満

あけち ひでみつ(1536-1582)
登場回数:10作

明智 秀満(あけち ひでみつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田家家臣の明智光秀の重臣。女婿または異説に従弟(明智光安の子)ともいうが、真偽の程は定かではない。
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