偉人

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杉亨二

すぎ こうじ(1828-1917)
登場回数:1作

杉 亨二(すぎ こうじ、文政11年8月2日(1828年9月10日) - 1917年(大正6年)12月4日)は、日本の統計学者、官僚、啓蒙思想家、法学博士。「日本近代統計の祖」と称される。初名は純道。
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菅野覚兵衛

すがの かくべえ(1842-1893)
登場回数:3作

菅野 覚兵衛(すがの かくべえ、天保13年旧10月21日(1842年11月23日) - 明治26年(1893年)5月30日)は、幕末の志士、海援隊隊士、明治時代の軍人である。 旧名 千屋 寅之助(ちや とらのすけ)。妻は起美(君江、坂本龍馬の妻・お龍の妹であるため、龍馬とは義兄弟にあたる)。
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正親町公通

おおぎまち きんみち(1653-1733)
登場回数:2作

正親町 公通(おおぎまち きんみち)は、江戸時代前期から中期にかけての公卿。権大納言・正親町実豊の長男。官位は従一位・権大納言。 垂加神道の布教に努めたことで知られる。また朝廷政治においては武家伝奏役などを務め、朝幕関係の取次ぎに活躍した。号に守初斎、須守霊社。雅号に白玉翁・風水軒。孝明天皇は公通の来孫に当たる。
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清原成衡

きよはら の なりひら(?-?)
登場回数:1作

清原 成衡(きよはら の なりひら/しげひら、生没年不詳)は、平安時代後期の武将。奥州の豪族 清原真衡の養子。妻は多気権守平宗基の孫娘(源頼義の娘と伝わる)。海道小太郎と号した。
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生島新五郎

いくしま しんごろう(1671-1743)
登場回数:1作

生島 新五郎(いくしま しんごろう、寛文11年(1671年) - 寛保3年1月5日(1743年1月30日))は、江戸時代中期の歌舞伎役者。江戸城大奥の月光院付きの御年寄であった江島と共に、江島生島事件の中心人物である。一方で、生島半六(初代 市川團十郎を刺殺した犯人)や二代目 市川團十郎の師匠の一人でもある。 大坂生まれ。貞享元年(1684年)に野田蔵之丞の名で木挽町の芝居小屋・山村座の舞台に立つ。元禄4年(1691年)、生島新五郎と改名。当時を代表する人気役者となった。 正徳4年(1714年)、大奥御年寄の江島が寺へ参詣した帰途、新五郎の舞台を観覧し、その後宴会を開いたことで大奥の門限に遅れ、大きな問題となった。このことから江島との密会が疑われ、捕縛の上、石抱の拷問にかけられ、「自白」させられた。評定所が審理した結果、新五郎に三宅島へ遠島(流罪)の裁決が下る。また、山村座の座元も伊豆大島への遠島となって、山村座は廃座となった。 寛保2年(1742年)2月、徳川吉宗により赦免され江戸に戻ったが、翌年小網町にて73歳で没する。ただし、享保18年(1733年)に三宅島で死去したという説もある。戒名は道栄信士。墓所は三宅島にある。 この事件を題材にした川柳に「やつさずに濡れ事をする新五郎」がある。「やつす」とは「化粧をする」という意味。
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西郷隆充

さいごう たかみつ(?-1852)
登場回数:3作

西郷 隆充(さいごう たかみつ)は、江戸時代末期の薩摩藩の鹿児島城下士。通称の竜右衛門で知られる。西郷隆盛・従道兄弟の祖父である。 次男で当初は村山氏の養子となっていたが、兄が切腹し、甥がその罪に連座したため西郷家に戻り、相続。藩職では御台所御番を勤めるというが、子の吉兵衛隆盛ほどには出世しなかった。
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青山忠良

あおやま ただなが(1806-1864)
登場回数:1作

青山 忠良(あおやま ただなが)は、江戸時代後期の大名・老中。丹波国篠山藩5代藩主。官位は従四位下・因幡守、下野守。青山家宗家19代。
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石川章長

いしこ あきなが(1649-1708)
登場回数:1作

石川 章長(いしこ あきなが)は、尾張藩家臣、美濃駒塚領主、石川(石河)家第3代当主。
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赤山靭負

あかやま ゆきえ(1823-1850)
登場回数:2作

赤山 靭負(あかやま ゆきえ)は、江戸時代後期の薩摩藩の重臣。諱は久普(ひさひろ)。父は島津氏分家・日置島津家当主の島津久風。長兄は、第29代藩主・島津忠義の主席家老・島津久徴、弟に西郷隆盛と親交を結び、西南戦争で戦死した桂久武がある。藩職は奥小姓、槍奉行を務める。
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千々石ミゲル

ちぢわ ミゲル(1569-1633)
登場回数:1作

千々石 ミゲル(ちぢわ ミゲル、Miguel 永禄12年(1569年)ごろ - 寛永9年12月14日(1633年1月23日)?)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武士、キリシタン。「ミゲル」は洗礼名で本名は千々石紀員(のりかず)で棄教後は千々石清左衛門(せいざえもん)。肥前国釜蓋城主千々石直員の子。大村純忠の甥、大村喜前及び有馬晴信の従兄弟。イエズス会による天正遣欧使節に派遣された4人の少年使節の1人で、4人の中では唯一棄教してキリスト教から離れたと伝えられている。
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