偉人

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川崎尚之助

かわさき しょうのすけ(1836-1875)
登場回数:1作

川崎 尚之助(かわさき しょうのすけ、天保7年(1836年)11月 - 明治8年(1875年)3月20日)は、江戸時代末期(幕末)の洋学者、会津藩士。尚斎と号した。
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浅井長時

あざい ながとき(1569-1584)
登場回数:2作

浅井 長時(あざい ながとき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏の家臣。尾張国苅安賀城主
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船越景直

ふなこし かげなお(1540-1611)
登場回数:1作

船越 景直(ふなこし かげなお、天文9年(1540年) - 慶長16年3月10日(1611年4月22日))は、戦国時代から江戸時代初期の武将で江戸幕府の旗本。父は船越景綸。子に永景、北条氏盛室。通称は五郎右衛門。官途は左衛門尉。 船越氏は藤原氏の流れを汲んだ淡路の国人で、鎌倉時代より戦国時代まで三原郡倭文の庄田を中心に支配し、室町時代には細川氏の被官となって活動していた。 景直は初め淡路庄田城主として、細川氏の重臣だった三好長慶の弟、安宅冬康に水軍を従えて仕えた。後に三好氏が滅んだことから織田信長に帰属し、天正9年(1581年)には淡路を攻めた羽柴秀吉から本領安堵を受ける。本能寺の変の後も秀吉の直臣として賤ヶ岳の戦いや小牧・長久手の戦いに参陣。後に淡路から播磨明石郡へと移され、4000石を受けて弓組と鉄砲組を率いた。その後も秀吉の家臣として小田原征伐や文禄の役にも従軍している。 ところが、文禄4年(1595年)に秀次事件に関わって秀吉から勘気を蒙り、陸奥の南部信直に預けられる。秀吉の没後、徳川家康の求めから摂津や河内に所領をあてがわれて復し、関ヶ原の戦いには東軍に加わった。その功から大和宇智郡にも1500石を加増され、6000石あまりを知行する江戸幕府の旗本に列す。翌年には、家康に請われて堀尾吉晴や猪子一時、大島光義らと共に関ヶ原の戦いの話に興じている。慶長16年(1611年)に死去。享年72。 景直は茶人として知られ古田織部に師事し、慶長11年(1606年)3月12日に皆伝を受けている。茶道具に用いられる織物、名物裂にある船越間道は景直あるいは子の永景が用いたことに由来する。
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前田利春

まえだ としはる(?-1560)
登場回数:1作
別名:前田利昌

前田 利春(まえだ としはる、? - 永禄3年7月13日(1560年8月4日))は、戦国時代の武将、尾張国荒子城主。別名利昌(としまさ)。通称は蔵人、縫殿助。父は前田利隆とされるが、史料が乏しく実在したかどうかは疑問であり、利春は事実上の加賀藩前田家などの始祖にあたる。室は竹野氏の娘(長齢院)。子に前田利久、前田利玄、前田安勝、前田利家、佐脇良之、前田秀継、寺西九兵衛室。 尾張国で林秀貞の与力として、織田氏に仕え、2千貫を知行して尾張荒子城(名古屋市中川区)の城主を務める。 永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いの後に死去した。戒名は道機庵休岳居士。 跡を嫡男の利久が継いだ。墓所は石川県七尾市の長齢寺、肖像画も所蔵されている。
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倉賀野尚行

くらがの なおゆき(?-?)
登場回数:1作

倉賀野 尚行(くらがの なおゆき)は、戦国時代の武将。山内上杉家(後に長尾上杉氏)の家臣。上野国倉賀野城主。
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足利基氏

あしかが もとうじ(1340-1367)
登場回数:1作

足利 基氏(あしかが もとうじ)は、南北朝時代の武将。初代鎌倉公方(在職:正平4年/貞和5年9月9日(1349年10月21日) - 正平22年/貞治6年4月26日(1367年5月25日))。後の古河公方の家系の祖でもある。室町幕府初代将軍足利尊氏の四男で、母は正室の赤橋登子(登子の子としては次男)。
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足利直冬

あしかが ただふゆ(1327-1387)
登場回数:1作

足利 直冬(あしかが ただふゆ)は、南北朝時代の武将。 室町幕府将軍・足利尊氏の落胤。尊氏に実子として認知されず、尊氏の同母弟・直義の養子となる。観応の擾乱を機に尊氏と徹底して対立・抗争を繰り広げて南北朝時代を激化させたが、尊氏の死後は勢力が衰え、備後宮内合戦を最後に消息不明となった。
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村松殿

むらまつどの(1565-1630)
登場回数:1作

村松殿(むらまつどの、永禄8年(1565年) - 寛永7年6月20日(1630年7月29日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての女性。小山田茂誠の正室。真田昌幸の長女。子に小山田之知。
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大井憲太郎

おおい けんたろう(1843-1922)
登場回数:1作

大井 憲太郎(おおい けんたろう、天保14年8月10日(1843年9月3日) - 大正11年(1922年)10月15日)は、日本の政治家、弁護士、社会運動家。自由民権運動に携わり、衆議院議員を務めた。旧姓、高並。別名、馬場城二郎、馬城山人。
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大関和七郎

おおぜき わしちろう(1836-1861)
登場回数:1作

大関 和七郎(おおぜき わしちろう)は、江戸時代末期(幕末)の水戸藩士。桜田門外の変で井伊直弼襲撃に参加した桜田十八士の1人である。実兄に黒澤忠三郎、甥に広岡子之次郎がいる。 弘化3年(1846年)に叔父である大関恒右衛門増賀の養子となって150石の家督を継いだ。安政2年(1855年)に馬廻組に任命され、安政5年(1858年)には大番組に編入される。安政6年(1859年)に戊午の密勅が下ると、兄の黒澤と同じく過激な尊王攘夷派だったことから、返納に反対して奉勅を訴えた。このため幕府の後ろ盾があった藩保守派より圧力を受け、商人に変装して名も酒泉好吉と改めて江戸に潜入する。 安政7年(1860年)3月3日の桜田門外の変では大老・井伊直弼の襲撃に参加する。井伊を討ち取ったが負傷したため、肥後熊本藩の江戸藩邸に自首する。後に越中富山藩邸、更にその後但馬豊岡藩邸に拘禁された。 文久元年(1861年)7月26日に幕府の評定において死罪となり、斬首された。享年26。明治31年(1898年)、正五位を追贈された。
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