偉人

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藤堂高虎

とうどう たかとら(1556-1630)
登場回数:8作

藤堂 高虎(とうどう たかとら)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。伊予今治藩主、後に伊勢津藩の初代藩主となる。津藩藤堂家(藤堂家宗家)初代。 藤堂高虎は、黒田孝高、加藤清正と並び、「築城三名人」の一人と称される。数多くの築城の縄張りを担当し、層塔式天守を考案。高石垣の技術をはじめ、石垣上には多聞櫓を巡らす築城の巧みさは、その第一人者といっても過言ではない。また外様大名でありながら徳川家康の側近として幕閣にも匹敵する実力を持つ、異能の武将であったといえる。
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徳川家治

とくがわ いえはる(1737-1786)
登場回数:1作

徳川 家治(とくがわ いえはる)は、江戸幕府の第10代征夷大将軍(在任:1760年 - 1786年)である。第9代征夷大将軍徳川家重の長男。
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徳川光友

とくがわ みつとも(1625-1700)
登場回数:2作

徳川 光友(とくがわ みつとも)は、江戸時代前期の大名。尾張藩2代藩主。新陰流第6世。初名は光義(みつよし)で、こちらを名乗った期間の方が長い。
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徳川斉昭

とくがわ なりあき(1800-1860)
登場回数:7作
別名:虎三郎/敬三郎/徳川紀教

徳川 斉昭(とくがわ なりあき)は、江戸時代後期の大名(親藩)。常陸水戸藩の第9代藩主。江戸幕府第15代(最後)将軍・徳川慶喜の実父である。
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奈良原喜左衛門

ならはら きざえもん(1831-1865)
登場回数:1作

奈良原 喜左衛門(ならはら きざえもん)は、幕末の薩摩藩士。嵯峨源氏渡辺氏の流れを汲む筒井久の末裔と称す。このため代々本名は一字であった。諱は清(滌)。家格は代々小番。奈良原助左衛門の長男。
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内藤政吉

ないとう まさよし(1588-1659)
登場回数:1作

内藤 政吉 (ないとう まさよし)は、江戸時代前期の旗本。 天正16年(1588年)、内藤忠政の三男として生まれる。慶長12年(1607年)、徳川秀忠に拝謁し書院番となり、のちに徳川忠長の傅役となる。 寛永6年(1629年)12月28日、布衣を許される。寛永9年(1633年)、忠長が改易となると秋田俊季に預けられ、寛永17年(1640年)12月10日から兄の忠重の預かりとなる。のちに許された。 万治2年(1659年)5月26日に死去。享年72。孫の内藤正勝は大名となり、信濃国岩村田藩主として幕末に至った。
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南部忠平

なんぶ ちゅうへい(1904-1997)
登場回数:1作

南部 忠平(なんぶ ちゅうへい、1904年(明治37年)5月24日 - 1997年(平成9年)7月23日)は、日本の陸上競技選手。走幅跳の元世界記録保持者。ロサンゼルスオリンピック陸上男子三段跳金メダリスト。
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二見虎三郎

ふたみ とらさぶろう(?-1868)
登場回数:1作

二見 虎三郎(ふたみ とらさぶろう、生年不詳 - 1868年(慶応4年))は、幕末期の越後長岡藩士。河井継之助の小千谷での新政府との会談に、藩士としてただひとり同行。河井の僕・松蔵の回想によれば、談判の決裂後、河井は、二見を相手に酒肴を重ね、詩を吟じていたという。会津七日町口の戦闘で、軍目付として戦死した。
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尼子晴久

あまご はるひさ(1514-1561)
登場回数:1作

尼子 晴久(あまご はるひさ)は、戦国時代、出雲国の戦国大名、出雲・隠岐・備前・備中・備後・美作・因幡・伯耆の守護大名。尼子経久の嫡孫に当たる。山陰山陽十一カ国のうち、八カ国の守護を兼任し中国地方一の大大名となった。また大内、毛利両軍をよく制した。八カ国守護とも言われる。
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日柳燕石

くさなぎ えんせき(1817-1868)
登場回数:1作

日柳 燕石(くさなぎ えんせき、文化14年3月14日(1817年4月29日) - 慶応4年8月25日(1868年10月10日))は、江戸時代末期の志士。讃岐国那珂郡子松郷榎井村字旗岡(現・香川県仲多度郡琴平町)の出身。幼名長次郎のち耕吉、諱は政章、字は士煥、号は燕石、別号柳東・春園・白堂・楽王・呑象樓・双龍閣。
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