偉人

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桂太郎

かつら たろう(1848-1913)
登場回数:1作

鈴木 重棟(すずき しげむね) は、江戸時代末期の水戸藩家老職。 鈴木重好を祖とする鈴木石見守家は代々従五位下に叙されて石見守を名乗り、水戸藩の家老・城代を務めた名家であった。門閥派諸生党の中でも最も禄高が高く、名目上諸生党の領袖とされた。 安政5年(1858年)大番頭、五十人扶持・500石。翌6年(1859年)、父重矩の隠居により家督を相続。禄高4500石。万延元年(1860年)には家老、城代となり、従五位下に叙されて石見守を称した。 元治元年(1864年)、水戸藩内の尊王攘夷派の激派により天狗党の乱が起こる。門閥派である諸生党は幕府の後援を得てこの鎮圧にあたり、市川三左衛門らとともに藩政の実権を掌握した。翌元治2年(1865年)3月、加増されて7000石。さらに家格は1万石とされた。 しかし、慶応4年(1868年)、明治維新により諸生党と尊攘派天狗党の立場は逆転する。天狗党の生き残りが水戸入りするにさきがけて3月10日水戸を脱し、諸生党の主要勢とは別れ、江戸に潜伏したが捕えられた。4月23日、斬罪に処された。享年30。 幼少の二人の息子も斬罪となった。8歳の長男・銛太郎は従容として刑に処されたが、次男・甚次郎は菓子を手に、兄と同じ目になるのは嫌だと泣きながら斬られたという。隠居していた父の重矩は、捕えられた後に食を絶ち獄死した。
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顕性院

けんしょういん(1604-1635)
登場回数:1作
別名:なほ/御田姫

顕性院(けんしょういん、慶長9年(1604年) - 寛永12年6月11日(1635年7月24日))は、江戸時代初期の女性。真田信繁の五女で、出羽亀田藩第2代藩主岩城宣隆の側室、のちに継室。名は、直、なほ、あるいは田(でん)。御田姫(おでんひめ)、御田の方(おでんのかた)とも呼ばれる。顕性院は院号。 子に岩城重隆。同母弟に三好幸信がいるが、これは後に猶子とされた。その他に異母兄弟姉妹に真田幸昌ら10名がいる。
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原田宗資

はらだ むねすけ(1582-1623)
登場回数:1作

原田 宗資(はらだ むねすけ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将、仙台藩伊達家重臣。
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源義平

みなもと の よしひら(1141-1160)
登場回数:2作

源 義平(みなもと の よしひら)は、平安時代末期の武将。源義朝の庶長子。通称は鎌倉悪源太(悪源太、鎌倉源太とも)。母は京都郊外の橋本の遊女 または三浦義明の娘 であり、源頼朝・義経らの異母兄にあたる。
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源扶

みなもと の たすく(?-935)
登場回数:1作

源 扶(みなもと の たすく)は、平安時代中期の武士。『将門記』に前常陸大掾・源護の長男として登場する。
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古今亭志ん朝

ここんてい しんちょう(1938-2001)
登場回数:1作

三代目 古今亭 志ん朝(ここんてい しんちょう、1938年3月10日 - 2001年10月1日)は、東京都文京区本駒込出身の落語家である。本名∶美濃部 強次(みのべ きょうじ)。出囃子は『老松』。定紋は『鬼蔦』。 五代目古今亭志ん生の次男で、十代目金原亭馬生の弟、女優の池波志乃は姪、俳優の中尾彬は義甥にあたる。 七代目立川談志、五代目三遊亭圓楽、五代目春風亭柳朝と共に、若手真打の頃から東京における『落語若手四天王』と呼ばれた。他に、同世代噺家の中では『東の志ん朝、西の枝雀』と称される。
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五藤為浄

ごとう ためきよ(1553-1583)
登場回数:2作

五藤 為浄(ごとう ためきよ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。山内家の家臣。
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後陽成天皇

ごようぜいてんのう(1571-1617)
登場回数:2作
別名:和仁/周仁/後陽成上皇

後陽成天皇(ごようぜいてんのう、1571年12月31日〈元亀2年12月15日〉- 1617年9月25日〈元和3年8月26日〉)は、日本の第107代天皇(在位: 1586年12月17日〈天正14年11月7日〉 - 1611年5月9日〈慶長16年3月27日〉)。諱は初め和仁(かずひと)、1598年(慶長3年)12月に周仁(かたひと)と改めた。
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工藤茂光

くどう もちみつ(?-1180)
登場回数:2作

工藤 茂光(くどう もちみつ/しげみつ)は、平安時代末期の武将・豪族。藤原南家の流れを汲む工藤氏の一族。狩野氏の祖であり、狩野茂光(かの-)とも呼ばれる。
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溝口勝如

みぞぐち かつゆき(?-?)
登場回数:2作

溝口 勝如(みぞぐち かつゆき)は、江戸時代後期(幕末)の旗本。通称は八十五郎。伊勢守。石高2500石。子に友三郎(末子、溝口勝為の養子)ら。
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