偉人

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島津久敬

しまづ ひさたか(1829-1868)
登場回数:1作

島津 久敬(しまづ ひさたか、文政12年〈1829年〉 - 慶応4年4月27日〈1868年5月19日〉?)は、幕末の薩摩藩士。今和泉島津家第10代当主島津忠剛の次男。母は島津久丙の娘お幸。幼名・巌熊。通称は又七郎、造酒、主殿。妻は小松清穆の六女。島津忠冬は同母兄、天璋院は同母妹にあたる。 天保11年(1840年)、元服する。嘉永6年(1853年)、永吉島津家の島津久陽の養子に入っている。永吉家は薩摩藩祖にあたる島津義久の弟である島津家久を祖とする。また久陽の妻は祖父(ただし父忠剛の養父である)島津忠喬の妹で、義大叔父にあたる。家督は継がず、藩家老島津登から養嗣子久籌を迎えている。 永吉島津家の系図には「慶応4年没、廃嫡。実は永吉で余生を送る」とあるが、安政2年にすでに久籌の家督が承認されているため、本当に慶応4年に没したとも。
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島津忠敬

しまづ ただゆき(1832-1892)
登場回数:1作

島津 忠敬(しまづ ただゆき)は、島津氏今和泉家第12代当主。第10代当主・島津忠剛の庶子、母は河野通記の娘。 安政6年(1859年)、兄忠冬の没後、その家督を継いで今和泉家当主となった。文久3年(1863年)、薩英戦争に従軍して活躍している。薩摩藩主島津忠義の弟にあたる姪婿の島津忠欽が跡を継いだ。異母妹に第13代将軍徳川家定の正室となった天璋院(於一、篤姫)がいる。 島津久光はかつては読みが同じ忠教(ただゆき)を名乗っていたが、別人である。
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東重胤

とう しげたね(1177-1247)
登場回数:1作

東 重胤(とう しげたね)は鎌倉時代初期の武将。東胤頼の嫡男。鎌倉幕府3代将軍源実朝の側近。千葉氏の庶流である東氏の二代目に当たる。歌人であった。
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藤原為憲

ふじわら の ためのり(?-?)
登場回数:1作

藤原 為憲(ふじわら の ためのり)は、平安時代中期の貴族・武将。藤原南家乙麻呂流、常陸介・藤原維幾の子。官位は従五位下・遠江権守。工藤大夫を号し、工藤氏の祖となる。平将門・平貞盛の従兄弟にもあたる。
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藤原兼雅

ふじわら の かねまさ(1148-1200)
登場回数:3作

藤原 兼雅(ふじわら の かねまさ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。花山院太政大臣・藤原忠雅の長男。官位は従一位・左大臣。後花山院左大臣と号す。花山院家4代。
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藤原俊成

ふじわら の としなり(1114-1204)
登場回数:3作

藤原 俊成(ふじわら の としなり)は、平安時代後期から鎌倉時代初期の公家・歌人。名は有職読みで「しゅんぜい」とも読む。藤原北家御子左流、権中納言・藤原俊忠の子。はじめ勧修寺流・藤原顕頼の猶子となり顕広(あきひろ)を名乗ったが、後に実家の御子左家に戻り、俊成と改名した。法名は釈阿。最終官位は正三位・皇太后宮大夫。『千載和歌集』の撰者として知られる。
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藤原忠清

ふじわら の ただきよ(?-1185)
登場回数:3作

藤原 忠清(ふじわら の ただきよ)は、平安時代末期の武将。伊勢国度会郡の古市荘を基盤とする藤原秀郷流伊藤氏の出身で、平氏譜代の有力家人である。伊藤忠清とも。
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藤原頼経

ふじわら の よりつね(1218-1256)
登場回数:2作
別名:九条頼経

藤原 頼経(ふじわら の よりつね)は、鎌倉幕府の第4代征夷大将軍。摂政関白を歴任した九条道家の三男で、摂家から迎えられた摂家将軍。九条頼経とも呼ばれる。 両親ともに源頼朝の同母妹坊門姫の孫であり、前3代の源氏将軍とは遠縁ながら血縁関係にある。妻は源頼家の娘竹御所。 竹御所は難産の末、母子共に亡くなり、源頼朝直系である源氏将軍の血筋は断絶した。頼経は反執権勢力に利用されるようになり、第5代執権北条時頼によって京都へ追放された(宮騒動)。
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陶興房

すえ おきふさ(1475-1539)
登場回数:1作

陶 興房(すえ おきふさ)は、戦国時代の武将。周防国の戦国大名大内氏の重臣。
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徳川家宣

とくがわ いえのぶ(1662-1712)
登場回数:3作
別名:徳川綱豊

徳川 家宣(とくがわ いえのぶ)は、江戸幕府の第6代征夷大将軍(在職:1709年 - 1712年)である。 甲府藩主・徳川綱重(甲府宰相)の長男で、母はお保良の方(長昌院)。正室は近衛基熙の娘・熙子(天英院)。子に徳川家継ほか。第3代将軍・徳川家光の孫に当たる。同母弟に松平清武、その子で甥に松平清方がいる。幼名は虎松。初名は綱豊(つなとよ)。
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