豊臣秀吉
とよとみ ひでよし(1537-1598)
登場回数:20作
別名:木下藤吉郎/木下秀吉/羽柴秀吉/藤原秀吉
豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、旧字体:豐臣 秀吉)は戦国時代から安土桃山時代の日本の武将、戦国大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。織田信長の後を継いで天下を統一し、近世封建社会の基礎を築いた。 尾張中村の木下弥右衛門の子。幼名は日吉丸(ひよしまる)。木下 藤吉郎(きのした とうきちろう)と称した。松下之綱の下男ついで織田信長に仕え、従来にはない斬新な奇策や政策で次第に頭角を現し、羽柴 秀吉(はしば ひでよし)に改名した。中国攻めの最中、信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると急ぎ毛利輝元と和解し京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った。柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破り、信長の後継の地位を固めた。大坂城を本拠とし、小牧・長久手の戦いで徳川家康を臣従させ、長宗我部元親を破り四国を平定した。関白、太政大臣となり、朝廷から豊臣の姓を賜った。島津義久を破り九州を平定し、政権を確立、刀狩令や海賊停止令を発した。北条氏を破り、関東、そして奥羽を平定し、天下統一を果たした。太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。その強力な権力・財政基盤をもとに聚楽第や方広寺大仏(京の大仏)などの豪華絢爛な建造物の造立にも着手し、桃山文化の発展に貢献した。晩年は明の征服を決意して朝鮮に出兵したが(文禄・慶長の役)、その最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。