偉人

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福澤諭吉

ふくざわ ゆきち(1835-1901)
登場回数:4作

福沢 諭吉(ふくざわ ゆきち、旧字体:福?澤 諭?吉、天保5年12月12日〈1835年1月10日〉 - 明治34年〈1901年〉2月3日)は、幕末から明治の日本の、武士、啓蒙思想家、教育者。慶應義塾の創設者。諱は範(はん)。字は子囲(しい、旧字体:子圍)。揮毫の落款印は「明治卅弐年後之福翁」。雅号は、三十一谷人(さんじゅういっこくじん)。 もともと苗字は「ふくさわ」と発音していたが、明治維新以後は「ふくざわ」と発音するようになった。現代では「福沢諭吉」と表記されることが一般的となっている。なお「中村諭吉」と名乗っていた時期がある。
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平賀玄信

ひらが げんしん(?-1537)
登場回数:2作

平賀 玄信(ひらが げんしん)は、戦国時代の武将。信濃源氏小笠原氏の庶流大井氏の庶流・岩村田大井氏の出自で、信濃国佐久郡平賀城主。 岩村田大井氏の一族平賀氏を継いで平賀城主となる。元々平賀氏は鎌倉時代に源氏門葉とされた清和源氏義光流の名門だったが、鎌倉時代に絶えている。その後は在地の氏族が名乗っていたと思われ、文安2年(1445年)以降は大井氏の一族とされている。 尚、「玄信」は法名であり、実名は平賀成頼(しげより)というが、以下本文中では前者に統一する。
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平時子

たいら の ときこ(1126-1185)
登場回数:6作

平 時子(たいら の ときこ、大治元年(1126年) - 文治元年3月24日(1185年4月25日)は、平安時代末期の女性。平清盛の正室(継室)。位階は従二位。二位尼(にいのあま)と称される。下級公家の平時信の娘で、母は二条大宮(令子内親王)の半物(氏素性は未詳)。権大納言・平時忠の同母姉、平滋子(建春門院)の異母姉。また能円の異父姉にもあたる。清盛との間に宗盛、知盛、徳子(建礼門院)、重衡らを生む。
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平常澄

たいら の つねずみ(?-?)
登場回数:1作

平 常澄(たいら の つねずみ)は、平安時代後期の武士。上総氏3代当主。平常晴の子。子に上総広常などがいる。諱は常隆、常高、常尊、また名を上総常澄とも。生年は不明。確実な史料には「前権介」としかみえないが、諸系図には「上総介」とみえる。
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平長盛

たいら の ながもり(?-1156)
登場回数:2作

平長盛(たいら の ながもり)は、平安時代後期の武将。平忠正の長男。弟に忠綱、正綱、通正がある。長盛のみ父の偏諱が含まれない名前だが、「長」の字は父が仕えていた藤原頼長からの偏諱(「盛」は伊勢平氏の通字)と考えられる。
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平良将

たいら の よしまさ(?-?)
登場回数:1作

平 良将(たいら の よしまさ、-良將)は、平安時代前期の武将。「良持」(よしもち)とする記録もある。平高望の三男(あるいは次男、四男)で、母は正室の北家藤原良方の娘。平将門の父。下総国を本拠とし、桓武平氏の中心人物。武家平氏の実質的な祖の一人とされる。従四位下 鎮守府将軍。
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片桐孝利

かたぎり たかとし(1601-1638)
登場回数:1作

片桐 孝利(かたぎり たかとし、慶長6年(1601年)- 寛永15年8月1日(1638年9月8日))は、大和竜田藩の第2代藩主。且元系片桐家2代。初代藩主・片桐且元の次男。正室は伊奈忠政の娘。官位は従五位下、出雲守。 慶長6年(1601年)、摂津国に生まれる。幼名は次郎助。元包。慶長14年(1609年)、豊臣姓を下賜された。 豊臣滅亡後は徳川家将軍の江戸幕府に臣従し、慶長20年(1615年)、父の死去により跡を継ぐ。高野山の造営奉行など、奉行職を良く務めた。寛永15年(1638年)8月1日、38歳で死去した。 弟の為元を末期養子として、4万石から1万石へ減封されたが家督相続が認められた。 墓所は東京都港区高輪の源昌寺。
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芳春院

ほうしゅんいん(1547-1617)
登場回数:5作
別名:まつ

芳春院(ほうしゅんいん、天文16年7月9日(1547年7月25日) - 元和3年7月16日(1617年8月17日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。加賀国(石川県)の戦国大名・前田利家の正室。名はまつ。篠原一計の娘。戒名は芳春院殿花巖宗富大禅定尼。母(竹野氏)が利家の母の姉であるため、利家とは従兄妹関係にあたる。学問や武芸に通じた女性であったと伝わる。
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豊臣秀頼

とよとみ ひでより(1593-1615)
登場回数:18作
別名:拾

豊臣 秀頼(とよとみ ひでより / とよとみ の ひでより、旧字体:豐臣秀賴)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。太閤・豊臣秀吉の三男で庶子。 秀吉の側室であった茶々(淀殿)の第二子。子は側室・和期の方(名は伊茶。渡辺氏)との間に国松と、小石の方(おいわのかた。成田氏)との間に天秀尼(彼女の生母については異説がある)。位階は正二位、官職は右大臣。幼名は拾丸(ひろいまる)。なお、豊臣とは名字ではなく、本姓である。乳母は宮内卿局・右京大夫局(一説に両者は同一人物共)・正栄尼が伝わる。また、淀殿の乳母である大蔵卿局も養育係を務めた。
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北条義時

ほうじょう よしとき(1163-1224)
登場回数:6作

北条 義時(ほうじょう よしとき、長寛元年(1163年) - 元仁元年(1224年))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士。北条氏の一門。鎌倉幕府の第2代執権。伊豆国の在地豪族・北条時政の次男。北条政子の弟。得宗家2代当主。 1219年に、源氏将軍が断絶すると、得宗の義時が鎌倉幕府の実質的な指導者となった。幕府と朝廷の対立が激化すると、1221年に後鳥羽上皇より義時追討の宣旨が全国に発布され朝敵となるも、幕府軍は京都に攻め上り朝廷を制圧。後鳥羽を含む3人の上皇を配流し、践祚していた後鳥羽の孫の懐成親王(九条廃帝。明治時代に仲恭天皇と諡)を廃した(承久の乱)。
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