偉人

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西園寺公朝

さいおんじ きんとも(1515-1590)
登場回数:1作

西園寺 公朝(さいおんじ きんとも)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての公卿。左大臣・西園寺実宣の子。官位は従一位・左大臣。
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西行

さいぎょう(1118-1190)
登場回数:3作
別名:佐藤義清

西行(さいぎょう、元永元年〈1118年〉 - 文治6年2月16日〈1190年3月31日〉)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての日本の武士であり、僧侶、歌人。俗名は佐藤 義清(さとう のりきよ)。憲清、則清、範清とも記される。西行は号であり僧名は円位。後に大本房、大宝房、大法房とも称す。 和歌は約2300首が伝わる。勅撰集では『詞花集』に初出(1首)。『千載集』に18首、『新古今集』に94首(入撰数第1位)をはじめとして二十一代集に計265首が入撰。家集に『山家集』(六家集の一)、『山家心中集』(自撰)、『聞書集』。その逸話や伝説を集めた説話集に『撰集抄』『西行物語』があり、『撰集抄』については作者と目される。
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青木周弼

あおき しゅうすけ(1803-1864)
登場回数:1作

青木 周弼(あおき しゅうすけ、享和3年1月3日(1803年1月25日) - 文久3年12月16日(1864年1月24日))は、江戸時代後期の蘭方医。周防国大島郡和田村の地下医(村医)青木玄棟の長子。諱は邦彦で、周弼は字。号は月橋。 初め、長州藩医の能美洞庵に医学と儒学を師事する。18歳で大坂、30歳で江戸に行き、深川の坪井信道にオランダ語、臨床医を学び、その縁で宇田川榛斎にも師事した。同門に緒方洪庵がいる。弟の青木研蔵と長崎にシーボルトに教授を受けにも行った。 1839年に長州藩医、1842年、周防医学所の教授蘭学掛になった。また、医学校の好生館設立に尽力、1855年に御側医に昇進した。研藏とともに藩内に種痘をし、コレラ治療に貢献した。門人も多く、村田清風とも交流を持ち、晩年は江戸で西洋医学所頭取就任の要請を固辞した。 著書に「袖珍内外方叢」、「察病論」など。 1903年、従四位を追贈された。 山口県萩市南古萩町にある青木周弼の旧宅は、当時の様子をよく残しており、萩市により公開されている。
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石谷穆清

いしがや あつきよ(1801-1869)
登場回数:1作

石谷 穆清(いしがや あつきよ)は、幕末の江戸幕府旗本。官位は因幡守、後に長門守。江戸時代初期に江戸北町奉行を務めた石谷貞清の子孫。
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赤松則村

あかまつ のりむら(1277-1350)
登場回数:1作

赤松 則村(あかまつ のりむら)は、鎌倉時代から南北朝時代にかけての武将、守護大名。本姓は源氏。家系は村上源氏の流れを汲む赤松氏4代当主。播磨国守護。法名の円心(えんしん)でも知られている。
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千道安

せん の どうあん(1546-1607)
登場回数:1作

千 道安(せん の どうあん、天文15年(1546年) - 慶長12年2月17日(1607年3月14日))は戦国時代から江戸時代初期の茶人。始め紹安。後に道安。号は、可休斎、不休斎、眠翁、泉南道安老人など。堺千家の主。
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川上操六

かわかみ そうろく(1848-1899)
登場回数:1作

川上 操六(かわかみ そうろく、嘉永元年11月11日(1848年12月6日) - 明治32年(1899年)5月11日)は、明治期の日本の陸軍軍人。官位は参謀総長・陸軍大将。栄典は従二位・勲一等・功二級・子爵。幼名宗之丞。長男の素一は陸軍歩兵少佐、娘は小原伝陸軍中将に嫁ぐ。桂太郎、児玉源太郎とともに、「明治陸軍の三羽烏」とされる。
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浅田信興

あさだ のぶおき(1851-1927)
登場回数:1作

浅田 信興(あさだ のぶおき、嘉永4年10月12日(1851年11月5日) - 1927年(昭和2年)4月27日)は、日本の陸軍軍人、華族。最終階級は陸軍大将。男爵。
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前原巧山

まえばら こうざん(1812-1892)
登場回数:1作

前原 巧山(まえばら こうざん、文化9年9月4日(1812年10月8日) - 明治25年(1892年)9月18日)は、江戸時代末期から明治期に活躍した日本の技術者。巧山は号で、名は喜市(きいち)、元の名を嘉蔵(かぞう)と言う。純国産の蒸気船の製造で知られる。
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前畑秀子

まえはた ひでこ(1914-1995)
登場回数:1作

前畑 秀子(まえはた ひでこ、1914年〈大正3年〉5月20日 - 1995年〈平成7年〉2月24日)は、和歌山県伊都郡橋本町(現・橋本市)出身の水泳選手。日本人女性初の五輪金メダリスト。結婚後の姓は兵藤(ひょうどう)といい、兵藤秀子の名前でもよく知られている。橋本市名誉市民。
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