偉人

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松平勝隆

まつだいら かつたか(1589-1666)
登場回数:2作

松平 勝隆(まつだいら かつたか)は、江戸時代前期の大名。上総国佐貫藩初代藩主。官位は従五位下・出雲守。
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松平忠正

まつだいら ただまさ(1543-1577)
登場回数:1作

松平 忠正(まつだいら ただまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。桜井松平家4代当主。通称は与一。三河国碧海郡桜井城主(愛知県安城市桜井町)。
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松本捨助

まつもと すてすけ(1845-1918)
登場回数:1作

松本 捨助(まつもと すてすけ、弘化2年4月24日(1845年5月29日) - 大正7年(1918年)4月6日)は、新選組の八番組隊士。土方歳三の縁戚。武蔵国多摩郡本宿村(現・東京都府中市本宿)の名主の松本友八の長男。
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上杉綱憲

うえすぎ つなのり(1663-1704)
登場回数:5作

上杉 綱憲(うえすぎ つなのり)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。出羽国米沢藩4代藩主。山内上杉家20代当主。高家肝煎・吉良上野介義央の実子(長男)で、上杉家に養子入りする。藩主在任中は教学振興を行い、後に藩校興譲館となる聖堂・学問所を設立する一方で財政窮乏を悪化させた。能を愛好し複数の能面や装束が現存している。
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上野彦馬

うえの ひこま(1838-1904)
登場回数:1作

上野 彦馬(うえの ひこま、1838年10月15日(天保9年8月27日) - 1904年(明治37年)5月22日)は、幕末期から明治時代にかけて活動した日本の写真家(写真師)。日本における最初期の写真家で、日本最初の戦場カメラマン(従軍カメラマン)としても知られる。号は季渓。家紋は桔梗の二引。
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織田信賢

おだ のぶかた(?-?)
登場回数:1作

織田 信賢(おだ のぶかた)は、戦国時代の武将。通称は兵衛、左兵衛。官位は伊勢守。尾張国岩倉城主。
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織田忠寛

おだ ただひろ(?-1577)
登場回数:1作

織田 忠寛(おだ ただひろ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。津田一安、または官途名の掃部助から、織田掃部(おだ かもん)と称された(丹波守とも)。法号は一安。子の名は不詳だが、文献には忠遼・信昌の名が記されている。尾張国日置城主。
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新島襄

にいじま じょう(1843-1890)
登場回数:1作

新島 襄(にいじま じょう 英字表記:Joseph Hardy Neesima、1843年2月12日(天保14年1月14日) - 1890年(明治23年)1月23日)は、キリスト教の教育者である。 江戸時代の1864年(元治元年)に密出国してアメリカ合衆国に渡り、そこでキリスト教の洗礼を受けて神学を学ぶ。そして、改革派教会(カルヴァン主義)の清教徒運動の流れをくむ会衆派系の伝道団体である「アメリカン・ボード」の準宣教師となった。日本に帰った後の1875年(明治8年)にアメリカン・ボードの力添えによって京都府にて同志社英学校(後の同志社大学)を設立した。
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森坊増隆

もりのぼう ぞうりゅう(?-?)
登場回数:1作

森坊 増隆(もりのぼう ぞうりゅう、生没年不詳)は、戦国時代の僧侶。京都聖護院の坊官。 天文18年(1549年)古河公方足利晴氏の左兵衛督昇進時の書状で名が見える。その後も特に小田原の北条氏と交流、また幕府の使者として下向している。弘治3年(1557年)長尾景虎(上杉謙信)と武田信玄の争いの調停のために甲斐へ、永禄10年(1567年)北条・上杉・武田の和睦のために小田原へ、それぞれ御内書を持って下向した。
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真田信之

さなだ のぶゆき(1566-1658)
登場回数:3作
別名:源三郎/真田信幸

真田 信之(さなだ のぶゆき)は、戦国時代から江戸時代前期の武将、大名。信濃上田藩の初代藩主、後に信濃松代藩の初代藩主。信幸と表記される場合もある。
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