偉人

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池田種徳

いけだ たねのり(1831-1874)
登場回数:1作

池田 種徳(いけだ たねのり、1831年〈天保2年10月〉 - 1874年〈明治7年〉9月12日)は、幕末の広島藩士・浪士組取締役、明治期の内政官僚。権令。通称・徳太郎、雅号・快堂。
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竹本義太夫

たけもとぎだゆう(1651-1714)
登場回数:2作

竹本義太夫(たけもとぎだゆう、慶安4年〈1651年〉 - 正徳4年9月10日〈1714年10月18日〉)とは、江戸時代の浄瑠璃語り。義太夫節浄瑠璃の創始者。本名五郎兵衛、初期には清水五郎兵衛と名乗る。のちに竹本筑後掾と称した。
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中原尚雄

なかはら なおお(1845-1914)
登場回数:2作

中原 尚雄(なかはら なおお)は、幕末薩摩藩の武士・伊集院郷士。明治時代の警察官・内務官僚。西南戦争の直接的なきっかけを作った人物として有名である。
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中村一氏

なかむら かずうじ(?-1600)
登場回数:2作

中村 一氏(なかむら かずうじ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣政権の三中老の一人。
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中野直由

なかの なおよし(?-1564)
登場回数:1作

中野 直由(なかの なおよし)は、戦国時代の武将。遠江国引佐郡井伊谷の国人・井伊氏の重臣。
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朝比奈信置

あさひな のぶおき(1528-1582)
登場回数:1作
別名:朝比奈元長/朝比奈政貞

朝比奈 信置(あさひな のぶおき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。今川氏、甲斐武田氏の家臣。庵原城主。名は元長、政貞とも言われる。
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長崎元家

ながさき もといえ(1538-1610)
登場回数:1作

長崎 元家(ながさき もといえ)は、戦国時代の武将。通称は弥左衛門尉。
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長尾景隆

ながお かげたか(?-1526)
登場回数:1作

長尾 景隆(ながお かげたか)は、戦国時代の武士。山内上杉家の家臣。上田長尾家の当主。 父である長尾兵庫助が早世したため、祖父・肥前守房景の跡を実兄・憲長が継いだが、憲長も早世したため顕吉が上田長尾本家を継ぐ。このとき、憲長の未亡人上条氏を妻とし、その遺児・新六(後の房長)を猶子とした。上条氏との間には景明、玖圓侍者、女子(天甫公)が生まれ、それぞれ房長の異父弟・異父妹となった。 上杉顕定の偏諱を受け顕吉と名乗ったと云われる。しかし、上田長尾家の系図は錯綜しており、景隆と顕吉を別人とする説も多い。 越後長尾氏の一族ではあるが、関東管領家の被官であったようだ。一部の史料では「上杉謙信の外祖父」とされることもある。上杉定実・長尾為景らが上杉房能を打倒した前後で、上田長尾本家を養子の房長が継いだ。
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鳥居忠房

とりい ただふさ(1606-1637)
登場回数:1作

鳥居 忠房(とりい ただふさ、慶長11年(1606年)- 寛永14年7月14日(1637年9月2日)は、甲斐谷村藩の第2代藩主。初代藩主・鳥居成次の長男。幼名太郎八。正室は有馬豊氏の娘。官位は従五位下、淡路守。 寛永元年(1624年)に五位下淡路守に叙任、同8年(1631年)、父の死去により跡を継ぐ。同時に徳川忠長の附家老にもなったが、翌年6月2日、忠長が幕命により改易されると連座によって改易され、一族の出羽山形藩主・鳥居忠恒預かりとなって、山形で蟄居を余儀なくされた。寛永13年(1636年)9月18日に赦免されたが、翌年7月に32歳で死去した。家督は弟の忠春が継いだ。法号は宗忠。
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柘植清広

つげ きよひろ(1540-1629)
登場回数:2作

柘植 清広(つげ きよひろ、天文9年(1540年) - 寛永6年8月22日(1629年10月8日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての旗本。柘植氏当主。通称は三之丞。法名は宗伯。父は柘植宗家、兄は柘植宗能。養子に柘植宗次。 鉄砲に秀で、威風流砲術を開く。天正伊賀の乱に際し、徳川家康に接近する。本能寺の変発生時、堺にいた家康が伊賀越えを決行すると、信楽と伊勢国白子間を一族で警護した。 関ヶ原の戦いで活躍して甲賀郡300石を賜り、慶長8年(1603年)には伏見城の城番を務める。慶長19年(1614年)の大坂の陣では、松平正綱の仰せにより鉄砲隊を率いた。後に幕府旗本となる。元和8年(1622年)に致仕し、寛永6年(1629年)に90歳で死去した。
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