偉人

偉人

天野遠景

あまの とおかげ(?-?)
登場回数:2作

天野 遠景(あまの とおかげ)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。藤原南家工藤氏の一族で、吉川氏と同族である。伊豆国田方郡天野に住して、その地名を取り天野氏と称した。
偉人

田村清顕

たむら きよあき(?-1586)
登場回数:1作

田村 清顕(たむら きよあき)は、初代征夷大将軍 坂上田村麻呂の子孫である戦国時代(室町時代後半)から安土桃山時代にかけての武将。陸奥国の戦国大名。田村氏25代当主。
偉人

渡辺守綱

わたなべ もりつな(1542-1620)
登場回数:2作

渡辺 守綱(わたなべ もりつな)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。徳川氏の家臣。江戸幕府旗本・尾張藩付家老。三河国寺部城主。徳川十六神将の一人。
スポンサーリンク
偉人

土岐善麿

とき ぜんまろ(1885-1980)
登場回数:1作

土岐 善麿(とき ぜんまろ、1885年(明治18年)6月8日 - 1980年(昭和55年)4月15日)は、日本の歌人・国語学者。歌人として土岐 哀果(とき あいか)の号も使用した。
偉人

土方雄久

ひじかた かつひさ(1553-1608)
登場回数:2作

土方 雄久(ひじかた かつひさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。越中布市藩主、のち能登石崎藩主、下総多古藩(田子藩)初代藩主。土方信治(のぶはる)の長男。 主として織田信雄に仕え、その1字を拝領して初め雄良(かつよし)、のち雄久と名乗った。 一説によれば前田利長・前田利政は雄久の従兄弟にあたるとされ、実際に弟の太田長知(ながとも、但馬守)が利長に仕えている。
偉人

島津久徳

しまづ ひさのり(?-?)
登場回数:2作

島津 久徳(しまづ ひさのり、生没年不詳)は、幕末の薩摩藩家老。碇山久寛の子。諱は久珍、後に久徳。通称は仲左衛門、八郎右衛門、藤馬、将曹。家号は碇山氏で、後に島津氏。出自は島津氏の傍流碇山氏嫡家で家格代々小番(平士、他藩の馬廻相当)だったが、天保11年(1840年)大目付となり、翌年には寄合家格へと引き上げられる。
偉人

島田魁

しまだ かい(1828-1900)
登場回数:1作

島田 魁(しまだ かい、文政11年1月15日(1828年2月29日) - 明治33年(1900年)3月20日)は、新選組隊士(二番組伍長)、守衛新選組隊長。嶋田ともいう。後に名前の魁の読み方を訓読みの「さきがけ」と改めた。諱は義明。家紋は丸に三つ鱗。
偉人

桃井直常

もものい ただつね(?-1376)
登場回数:1作

桃井 直常(もものい ただつね)は、南北朝時代の武将、守護大名。足利氏一門で家臣。父は桃井貞頼。弟に直信、直顕。子に直和、直知、直久、直政、康儀、直藤、直光、正雲禅師(越中国国泰寺住持)、養子に直弘。 桃井氏は下野の足利氏の支族で、上野国群馬郡桃井(現在の群馬県榛東村、旧名桃井村)を苗字の地とする。 1333年(正慶2年)には、桃井一族は新田義貞の鎌倉攻略戦に従軍したが、建武の新政崩壊後、武家方と宮方双方に分裂して南北朝動乱期を迎えた。 武家方の桃井直常、直信兄弟は名を馳せた。
偉人

藤原教長

ふじわら の のりなが(1109-1180)
登場回数:1作

藤原 教長(ふじわら の のりなが)は、平安時代後期から末期にかけての公卿・歌人。藤原北家難波家・飛鳥井家始祖、大納言・藤原忠教の次男。官位は正三位・参議。
偉人

藤原幸子

ふじわら の こうし(1112-1155)
登場回数:1作

藤原 幸子(ふじわら の こうし、天永3年(1112年) - 久寿2年6月1日(1155年7月2日))は、藤原頼長の正室。父は徳大寺実能、母は藤原顕隆の娘。二条天皇の皇后育子の姉。待賢門院璋子は父・実能の妹で叔母に当たる。 頼長14歳、幸子22歳の年に結婚したが、子宝には恵まれず、弟公能の娘多子(のちの近衛天皇の皇后)を養女とした。 頼長は男女いずれに対しても好色で知られるが、幸子は嫡室として大切にされたようである。
スポンサーリンク