偉人

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市姫

いちひめ(1607-1610)
登場回数:2作

市姫(いちひめ、慶長12年1月1日(1607年1月28日) - 慶長15年2月12日(1610年3月7日))は、伊達政宗の嫡男・伊達忠宗と婚約していた女性。父は徳川家康(市姫は五女)。母は側室のお梶の方(遠山氏)。 徳川家康が66歳のときに生まれた五女である。家康はかつて、織田信長の妹で絶世の美女と謳われたお市の方のように美女になってほしいと願っていたらしく、市姫と命名した。 慶長12年(1607年)2月8日、家康は当時、最大の勢力を誇っていた外様大名の伊達政宗と関係をさらに深めるため、政宗の嫡男・虎菊丸(のちの忠宗)と婚約させている。しかし慶長15年(1610年)2月12日、市姫は3歳で夭折した。野苺を摘んでいた際、毒虫に刺され、それが原因でこの世を去ったと言われている。追号は清雲院、または一照院。 家康は市姫の夭折に嘆き悲しむと同時に、忠宗に対して孫娘の振姫(実父は池田輝政で、生母が家康の次女・督姫)を徳川秀忠の養女として婚約させている。
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児玉源太郎

こだま げんたろう(1852-1906)
登場回数:2作

児玉 源太郎(こだま げんたろう、1852年4月14日(嘉永5年閏2月25日) - 1906年(明治39年)7月23日)は、明治時代の日本の陸軍軍人、政治家。日露戦争において満州軍総参謀長を務め、勝利に貢献した。階級は陸軍大将、栄典は正二位勲一等功一級子爵。
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宍戸元源

ししど もとよし(?-1542)
登場回数:1作

宍戸 元源(ししど もとよし)は、戦国時代の武将。安芸国の国人である宍戸氏の当主。安芸国高田郡甲立の五龍城を居城とした。豪放な性格で、猛将として広く知られていたという。
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柴田勝政

しばた かつまさ(1557-1583)
登場回数:1作

柴田 勝政(しばた かつまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。佐久間盛次の三男。母は柴田勝家の姉。柴田勝家の養子。越前国勝山城主であり、当時は勝安と名乗っていた。
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酒井忠義

さかい ただあき(1813-1873)
登場回数:2作

酒井 忠義(さかい ただあき)は、江戸時代後期から末期の大名。若狭小浜藩の第12代、第14代藩主。小浜藩酒井家13代、15代。
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宗義智

そう よしとし(1568-1615)
登場回数:2作

宗 義智(そう よしとし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。対馬国領主宗氏20代当主。対馬府中藩初代藩主。
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俊寛

しゅんかん(1143-1179)
登場回数:5作

俊寛(しゅんかん、康治2年(1143年) - 治承3年3月2日(1179年4月10日))は、平安時代後期の真言宗の僧。僧位の「僧都」を冠して俊寛僧都(しゅんかん そうず)と呼ばれることも多い。 村上源氏の出身で、父は木寺(仁和寺院家)の法印寛雅、母は宰相局(源国房の娘で八条院暲子内親王の乳母)。姉妹に大納言局(八条院女房で平頼盛の妻)。
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緒方洪庵

おがた こうあん(1810-1863)
登場回数:1作

緒方 洪庵(おがた こうあん、文化7年7月14日〈1810年8月13日〉 - 文久3年6月10日〈1863年7月25日〉)は、江戸時代後期の武士(足守藩士)・医師・蘭学者。諱は惟章(これあき)または章(あきら)、字は公裁、号を洪庵の他に適々斎、華陰と称する。 大阪に適塾(大阪大学の前身)を開き、人材を育てた。天然痘治療に貢献し、日本の近代医学の祖といわれる。
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小笠原政民

おがさわら まさたみ(?-?)
登場回数:1作

小笠原 政民(おがさわら まさたみ、生没年不詳)は幕末の旗本。父は旗本・小笠原安房守。通称は順三郎。官位は志摩守。 天保13年(1842年)寄合より火事場見廻役を経て火消役となる。嘉永7年(1854年)小普請組支配となり、安政7年(1860年)小姓組番頭、文久2年(1862年)書院番頭、同3年(1863年)大番頭を歴任し、慶応元年(1865年)勘定奉行(公事方)に就任した。慶応2年(1866年)大番頭に再任されるが、御留守居に転じた。同3年(1867年)に致仕し、隠居料300俵を拝した。
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小山田信茂

おやまだ のぶしげ(1539-1582)
登場回数:2作
別名:小山田信有

小山田 信茂(おやまだ のぶしげ)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣で譜代家老衆。甲斐東部郡内領の国衆。武田二十四将の一人に数えられる。
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