偉人

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浅野氏祐

あさの うじすけ(1834-1900)
登場回数:1作

浅野 氏祐(あさの うじすけ、天保5年(1834年) - 明治33年(1900年)1月8日) は、江戸時代末期の幕府旗本、若年寄、明治時代の静岡県参事、徳川公爵家の家令。江戸時代には次郎八や一学の通称や、伊賀守・美作守などの官位名を名乗っていた。
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前田秀継

まえだ ひでつぐ(?-1586)
登場回数:1作

前田 秀継(まえだ ひでつぐ)は、戦国時代の武将。津幡城、今石動城、木舟城主。前田利春の六男。母は長齢院(竹野氏女)。前田利家の弟。
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善応院

ぜんおういん(?-1604)
登場回数:1作

善応院(ぜんおういん、? - 慶長9年6月29日(1604年7月25日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての女性。父は荒尾善次。母は荒尾空善の娘。実名は不明。兄弟に荒尾善久、荒尾成房、荒尾隆重。成房と隆重はのちに善応院の次男である池田輝政に仕えた。
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相良頼房

さがら よりふさ(1574-1636)
登場回数:1作

相良 頼房(さがら よりふさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。相良氏の第20代当主で、肥後人吉藩の初代藩主。頼房は初名で、晩年である元和2年に長毎(ながつね)と改名したので、先祖と同名の相良長毎が実名であるが、区別のために項目名は頼房としている。また父の義陽も初名は頼房であった。
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足利義澄

あしかが よしずみ(1481-1511)
登場回数:1作

足利 義澄(あしかが よしずみ)は、室町幕府第11代征夷大将軍。在任:明応3年12月27日(1495年1月23日) - 永正5年4月16日(1508年5月15日)。父は第8代征夷大将軍・足利義政の異母弟である堀越公方・足利政知。はじめ法名を清晃(せいこう)といい、還俗して義遐(よしとお)、義高(よしたか)、そして義澄。正室は日野富子の姪にあたる日野阿子(富子の兄弟である僧永俊の娘)。継室は武衛娘。 明応2年(1493年)に従兄の10代将軍・足利義材(義稙)が細川政元によって追放されると、11代将軍として擁立された。しかし、永正5年(1508年)に前将軍・義稙を擁立する大内義興が上洛の軍を起こしたため、近江国へ逃れて将軍職を廃され、復帰できないまま死去した。
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村井長頼

むらい ながより(1543-1605)
登場回数:1作

村井 長頼(むらい ながより)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、前田家の家臣。本姓は平氏(桓武平氏)。家紋は丸ノ内上羽蝶。通称は又兵衛、長八郎、豊後守。嫡男に村井長次。
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多門重共

おかど しげとも(1658-1723)
登場回数:4作
別名:多門伝八郎

多門 重共(おかど しげとも)は、江戸時代の幕府旗本。通称をもって多門伝八郎(おかどでんぱちろう)と呼ばれることが多い。赤穂事件において浅野長矩の取り調べと切腹の副検死役をつとめ、『多門筆記』に長矩の様子を詳しく記した人物として著名。
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大岡忠光

おおおか ただみつ(1709-1760)
登場回数:1作

大岡 忠光(おおおか ただみつ)は、江戸時代中期の旗本、大名。江戸幕府の御側御用人、若年寄を務め、第9代将軍徳川家重の側近として活躍した。上総勝浦藩主、武蔵岩槻藩初代藩主。
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大久保忠俊

おおくぼ ただとし(1499-1581)
登場回数:1作

大久保 忠俊(おおくぼ ただとし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。三河の松平氏(徳川氏)の譜代家臣。宇津忠茂の子。蟹江七本槍の一人。通称は新八郎、五郎右衛門とも。号は常源。妻は坂部正利の娘。弟に大久保忠員ら、子に忠勝らがいる。
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大熊朝秀

おおくま ともひで(?-1582)
登場回数:2作
別名:大熊長秀

大熊 朝秀(おおくま ともひで)は、戦国時代の武将。越後上杉氏、次いで甲斐武田氏の重臣。越後国中頸城郡箕冠城主。(現在の新潟県上越市板倉区)
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