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安倍家任

あべ の いえとう(?-1062)
登場回数:1作

安倍 家任(あべ の いえとう)は、平安時代中期の武将。安倍頼時の子。安倍磐井七郎家任とも。藤原清衡は甥にあたる。 叔父・安倍良照の養子となる。前九年の役では、養父・良照や父兄に従って活躍するが、その後出家し、兄・宗任らと共に大宰府に配流された。なお子・秀任は家任の死後に良照に養育されている。秀任は小松小太郎と称した。 秀任には祐任という一人息子がおり、子孫は戦国時代に小松黒沢氏となり、徳川家旗本・仙台藩士として近代に残ったという。 一説によると藤原泰衡の郎党で大河兼任の乱を起こした大河兼任は家任の兄弟・正任の4代後の子孫にあたるという(正任が兼任の高祖父)。
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以心崇伝

いしん すうでん(1569-1633)
登場回数:4作
別名:金地院崇伝

以心崇伝(いしん すうでん、永禄12年〈1569年〉- 寛永10年1月20日〈1633年2月28日〉)は、安土桃山時代から江戸時代の臨済宗の僧。字は以心、法名が崇伝で、南禅寺金地院に住したため、金地院崇伝(こんちいん すうでん)とも呼ばれる。本光国師の称は、寛永3年(1626年)に後水尾天皇の師となり授けられたもの。俗姓は一色氏。徳川家康のもとで江戸幕府の法律の立案・外交・宗教統制を一手に引き受け、江戸時代の礎を作ったとされる。その権勢から「黒衣の宰相」の異名を取った。 起草した武家諸法度は老中以下諸大名の前で崇伝により布告された。徳川家光、徳川忠長の諱は崇伝により名付けられた。
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伊達宗綱

だて むねつな(1603-1618)
登場回数:1作

伊達 宗綱(だて むねつな)は、江戸時代初期の陸奥国仙台藩一門・岩ヶ崎伊達家初代当主。栗原郡岩ヶ崎要害主。
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伊地知正治

いじち まさはる(1828-1886)
登場回数:5作
別名:竜駒

伊地知 正治(いじち まさはる / しょうじ)は、日本の武士(薩摩藩士)、官僚、政治家、華族。諱は季靖。通称は龍右衛門、後に正治。正三位勲一等伯爵。家紋は宝結び。 戊辰戦争の白河口の戦いでは、わずか700の兵で、4倍弱にあたる2500名の幕府軍を撃破したことなどにより、「類いまれな軍略家」などという異名がある。また、片眼と片脚が不自由がなのにも関わらず新政府軍参謀として活躍したことにより、「薩摩の山本勘助 」などという異名もある。
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伊藤盛正

いとう もりまさ(?-1623)
登場回数:1作

伊藤 盛正(いとう もりまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。 慶長4年(1599年)、父・伊藤盛景の死後、家督を継いで美濃国大垣城を領した(3万4000石)。翌慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、西軍に与し、居城の大垣城を本陣にしたいと石田三成より要請があり、一旦は拒絶をしたが、城を明け渡し、美濃国今村城に退去している。8月17日には市橋長勝と戦って敗れた。本戦では、松尾山城に陣していたが小早川秀秋によって追い出され、後に関ヶ原本戦にも参加した。戦後、改易され没落した。 その後、京都で浪人をしている時、徳川家康に見つかり殺されそうになったところを福島正則の懇願により助けられ、正則の領地・広島で15年程滞在した。合戦から20年後、元和6年(1620年)頃、加賀藩へ移り前田利常に仕えている。後に禄高2000石。「利」の文字を同藩前田家から授かり伊藤図書頭利吉と改名、同家に厚遇された。加賀藩を頼ったのは、父・盛景と前田利家が織田信長の家臣時代、同じ馬廻衆だったことの縁による。盛正の正室も利家の養女を迎え入れている。 元和9年(1623年)3月、死去。直系の子孫は石川県金沢市、小松市、加賀市在住。
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井伊直平

いい なおひら(1479-1563)
登場回数:1作

井伊 直平(いい なおひら)は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。遠江国の国人・井伊氏16代当主。井伊直虎・井伊直政の曾祖父。一説には、徳川家康の正室・築山殿の外祖父に当たると言われる。その場合、直平は松平信康の曾祖父になる。
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井上正之

いのうえ まさゆき(1696-1737)
登場回数:1作

井上 正之(いのうえ まさゆき)は、常陸国笠間藩主。浜松藩井上家5代。
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一条信能

いちじょう のぶよし(1190-1221)
登場回数:1作

一条 信能(いちじょう のぶよし、建久元年(1190年) - 承久3年7月5日(1221年7月25日))は、鎌倉時代初期の公卿。藤原北家頼宗流、権中納言一条能保の次男。母は江口の遊女慈氏。子に忠俊がいる。異母兄弟に高能、実雅、尊長らがある。官位は従三位・参議。
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稲葉正次

いなば まさつぐ(1591-1628)
登場回数:1作

稲葉 正次(いなば まさつぐ)は、江戸時代前期の旗本。稲葉正成の長男。 稲葉正成の正室の子で嫡男であったため、本来なら父の遺領を継ぐはずだったが、継母の福(春日局、稲葉重通養女で斎藤利三の娘)が徳川家光の乳母となったため、嫡子の座を異母弟で福の生んだ正勝に譲ることとなった。 元和4年(1618年)、徳川秀忠に召し出され5000石の所領を与えられる。寛永5年(1628年)、死去。 嫡男・正能が僅か3歳であったため、遺領は弟・正吉が相続するが、正能も後に旗本として召し出され、初の日光奉行を務めるなど活躍。子孫は旗本として存続した。
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宇喜多直家

うきた なおいえ(1529-1582)
登場回数:3作

宇喜多 直家(うきた なおいえ)は、戦国時代の武将。備前国の戦国大名。通称は三郎右衛門尉、のち和泉守。官位は従五位下。宇喜多興家の子。子に秀家など。室は中山勝政の娘、後に鷹取氏あるいは三浦氏の娘とされる円融院。
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