偉人

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月光院

げっこういん(1685-1752)
登場回数:1作
別名:お喜世

月光院(げっこういん、貞享2年(1685年) - 宝暦2年9月19日(1752年10月25日))は、江戸幕府6代将軍徳川家宣の側室で、7代将軍徳川家継の生母。本名は勝田輝子(かつたてるこ)で、家宣が死去してから月光院と呼ばれる。側室としての名は喜世(きよ)が知られる。また局としての名に左京の局(さきょうのつぼね)がある。
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原昌俊

はら まさとし(?-1549)
登場回数:1作

原 昌俊(はら まさとし、生年未詳 - 天文18年5月1日(1549年5月27日))は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣で、譜代家老衆。原隼人佑家の祖。別名に国房、胤元。加賀守。子に昌胤。
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源義家

みなもと の よしいえ(1039-1106)
登場回数:1作

源 義家(みなもと の よしいえ)は、平安時代後期の武将。伊予守・源頼義の長男。八幡太郎(はちまんたろう)の通称でも知られる。後に鎌倉幕府を開いた源頼朝や室町幕府を開いた足利尊氏などの祖先に当たる。また父源頼義の同母弟で信濃源氏の祖である源頼季は彼の叔父に当たる人物である。 比叡山等の強訴の頻発に際し、その鎮圧や白河天皇の行幸の護衛に活躍するが、陸奥国守となった時、清原氏の内紛に介入して後三年の役を起こし、朝廷に事後承認を求める。その後約10年間は逼塞状態であったが、白河法皇の意向で院昇殿を許された。 その活動時期は摂関政治から院政に移り変わる頃であり、政治経済はもとより社会秩序においても大きな転換の時代にあたる。このため歴史学者からは、義家は新興武士勢力の象徴ともみなされ、後三年の役の朝廷の扱いも「白河院の陰謀」「摂関家の陰謀」など様々な臆測がされてきた。生前の極位は正四位下。
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源重貞

みなもと の しげさだ(?-?)
登場回数:1作

源 重貞(みなもと の しげさだ)は、平安時代末期の武将。源重実の四男。 清和源氏満政流の一族で近江国矢島(現在の滋賀県守山市矢島町)を本拠とする在京軍事貴族(京武者)。保元の乱では源為朝(鎮西八郎)を捕縛した。平治の乱で多くの軍事貴族が淘汰された後も活動を続け、平氏政権下においても一定の勢力を保持した。諱は重定とも記される。
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源隆国

みなもと の たかくに(1004-1077)
登場回数:1作

源 隆国(みなもと の たかくに)は、平安時代後期の公卿。醍醐源氏、大納言源俊賢の子。幼名は宗国。官位は正二位権大納言。宇治大納言と称された。
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戸田忠太夫

とだ ちゅうだゆう(1804-1855)
登場回数:1作

戸田 忠太夫(とだ ちゅうだゆう)は、日本の幕末(江戸時代・幕末)における水戸藩家老で、尊王派の志士として知られる。 水戸戸田家第7代当主。家老職拝命の際、主君・徳川斉昭より忠太夫の仮名を与えられる。諱から戸田忠敞、号から戸田蓬軒と呼ばれることも多い。
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後藤基次

ごとう もとつぐ(1560-1615)
登場回数:8作
別名:後藤又兵衛

後藤 基次(ごとう もとつぐ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。黒田氏、豊臣氏の家臣。通称は後藤 又兵衛(ごとう またべえ)。 黒田孝高(如水)、黒田長政、豊臣秀頼に仕え数多くの軍功を挙げ、江戸時代に、「黒田二十四騎」「黒田八虎」、また大坂の陣の講談や軍記物語などで豪傑として描かれ、「大坂城五人衆」の一人に数えられた。
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勾当内侍

こうとうのないし(?-?)
登場回数:1作

勾当内侍(こうとうのないし、生没年不詳)は、南北朝時代の女官。本名は不詳。公家の世尊寺家の一族で、一条経尹あるいは一条行尹の娘、または一条行房の娘もしくは妹ともいう。『太平記』に新田義貞の妻の一人として登場する。
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江川英龍

えがわ ひでたつ(1801-1855)
登場回数:1作

江川 英龍(えがわ ひでたつ、享和元年5月13日 - 安政2年1月16日)は、江戸時代後期の幕臣で伊豆韮山代官。通称の太郎左衛門(たろうざえもん)、号の坦庵(たんあん/たんなん)の呼び名で知られている。韮山では坦庵と書いて「たんなん」と読むことが多い。 洋学とりわけ近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱き、反射炉を築き、日本に西洋砲術を普及させた。地方一代官であったが海防の建言を行い、勘定吟味役まで異例の昇進を重ね、幕閣入を果たし、勘定奉行任命を目前に病死した。
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香月経五郎

かつき けいごろう(1849-1874)
登場回数:1作

香月 経五郎(かつき けいごろう、嘉永2年(1849年) - 明治7年(1874年)4月13日)は、江戸時代後期(幕末)の佐賀藩士。佐賀の乱の首謀者の一人。
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