偉人

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前田彦右衛門

まえだ ひこえもん(?-?)
登場回数:1作

前田彦右衛門(まえだ ひこえもん、生没年不詳)は、幕末の土佐国の力士。 土佐国安芸郡井ノ口村の庄屋・島田便右衛門の邸宅に出入りしていた田舎角力。安政2年(1855年)水争いで島田と対立していた岩崎弥次郎が島田邸で島田と口論になった際、島田の指示で弥次郎に暴行を加えて重傷を負わせた上、屋外に放り出したと言われている。
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曽雌定子

そし さだこ(1661-1713)
登場回数:4作

曽雌定子(そし さだこ、寛文元年(1661年) - 正徳3年9月5日(1713年10月23日))は、柳沢吉保の正室。武田遺臣である旗本の曽雌定盛の次女。母は曽雌定次の娘。
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増子女王

ますこじょおう(1711-1733)
登場回数:1作

増子女王(ますこじょおう、正徳元年10月19日(1711年11月28日) - 享保18年10月3日(1733年11月9日))は、江戸幕府第9代将軍・徳川家重の将軍世子時代の御簾中(正室)。伏見宮邦永親王の第四王女。幼称は比宮(なみのみや)。院号は證明院(しょうめいいん)。諱には培子と記されたものもある。家重の父・徳川吉宗の紀州藩主時代の御簾中だった理子女王は叔母にあたる。
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足利義稙

あしかが よしたね(1466-1523)
登場回数:2作

足利 義稙(あしかが よしたね)は、室町幕府第10代征夷大将軍。父は室町幕府第8代将軍・足利義政の弟で、一時兄の養子として継嗣に擬せられた足利義視。母は裏松重政の娘・日野良子(日野富子の妹)。 初名は義材(よしき)。将軍職を追われ逃亡中の明応7年(1498年)に義尹(よしただ)、将軍職復帰後の永正10年(1513年)には義稙(よしたね)と改名している。 将軍在職は2つの時期に分かれており、1度目は延徳2年7月5日(1490年7月22日)から明応3年12月27日(1495年1月23日)まで在職した後、約13年半の逃亡生活を送る。2度目は永正5年7月1日(1508年7月28日)から大永元年12月25日(1522年1月22日)まで在職した。なお、鎌倉・室町・江戸の3幕府の将軍の中で唯一、将軍職を再任されている人物でもある。
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村山たか

むらやま たか(1809-1876)
登場回数:2作

村山 たか(むらやま たか、文化6年(1809年) - 明治9年(1876年)9月30日)は、江戸時代後期から明治時代初期の女性。舟橋聖一の小説『花の生涯』のヒロインとして知られる。別名村山加寿江(かずえ、可寿江とも)。
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太田資宗

おおた すけむね(1600-1680)
登場回数:1作

太田 資宗(おおた すけむね)は、江戸時代前期の譜代大名、六人衆。下野山川藩主、三河西尾藩主、遠江浜松藩初代藩主。官位官職は従五位下・備中守。掛川藩太田家初代。 太田重正の次男として生まれる。母は都築秀綱の娘。正室は板倉重宗の娘。子に資政(長男)、資次(次男)、資良(三男)、娘(加藤泰義正室)、娘(稲葉正吉正室)、娘(永井尚庸継室)、娘(一柳末礼正室)、娘(土井利益正室)、娘(角倉玄恒室)ら。父の妹とされる人物に英勝院(徳川家康側室)がいる。
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大河内信古

おおこうち のぶひさ(1829-1888)
登場回数:1作

大河内 信古(おおこうち のぶひさ)は、三河吉田藩の第7代(最後)の藩主。松平伊豆守系大河内松平家11代。はじめ松平信古と名乗る。
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大久保忠増

おおくぼ ただます(1656-1713)
登場回数:1作

大久保 忠増(おおくぼ ただます)は、江戸時代の大名、老中。相模国小田原藩第2代藩主。小田原藩大久保家4代。 初代藩主大久保忠朝の長男。正室は松平忠弘の娘(寿昌院慈岳元長尼)。寺社奉行、若年寄を経て、老中となる。
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大戸阿久里

おおと あぐり(1648-?)
登場回数:1作

大戸 阿久里(おおと あぐり、慶安元年(1648年) - ?)は、下総国関宿藩主・牧野成貞の正室。5代将軍・徳川綱吉の側室であったという説もある。
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大石くう

おおいし くう(1690-1704)
登場回数:2作

大石 くう(おおいし くう、元禄3年(1690年) - 宝永元年9月29日(1704年10月27日))は、江戸時代中期の女性。 元禄3年(1690年)、赤穂藩筆頭家老大石良雄とその妻りく(香林院)の長女として赤穂の大石邸で生まれる。 赤穂藩が改易されたあと、大石家の屋敷も召し上げられたので元禄14年(1701年)5月に母りくや兄の大石良金、弟の大石吉之進、妹のるりとともにりくの実家但馬国豊岡藩石束毎公邸に移った。その後、7月に父・良雄が山科に住居を落ち着けると、りくも子らを連れて山科へ移った。その後、吉良家討ち入り計画が進む中で連座を避けるために良雄は、討ち入りに加わることを望んだ長男良金を除いて妻りくや子らを絶縁し、元禄15年(1702年)4月15日に母りくとともに但馬豊岡へ戻ることとなった(赤穂事件)。 宝永元年(1704年)9月29日に死去。享年15。豊岡の正福寺に葬られた。法名は正覚院本光妙智信女。
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