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本寿院

ほんじゅいん(?-1739)
登場回数:1作

本寿院(ほんじゅいん、寛文5年(1665年) - 元文4年2月14日(1739年3月23日))は、尾張藩第3代藩主・徳川綱誠の側室。第4代藩主・徳川吉通の生母。本寿院とは落飾後の院号で、落飾前は福、下総の名で呼ばれていた。姓は坂崎氏を使用した。
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本多忠良

ほんだ ただなが(1690-1751)
登場回数:1作

本多 忠良(ほんだ ただなが)は、江戸時代中期の大名。幕府では側用人、老中を務めた。越後国村上藩の第2代藩主、三河国刈谷藩主、下総国古河藩の初代藩主。官位は従四位下・侍従、中務大輔。忠勝系本多家宗家8代。
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妙高院

みょうこういん(1577-1626)
登場回数:1作
別名:国姫/熊姫/妙光院

妙高院(みょうこういん、天正5年(1577年) - 寛永3年6月25日(1626年8月16日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。名は国姫、あるいは熊姫。妙光院とも記される。
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明智光秀

あけち みつひで(1528-1582)
登場回数:18作
別名:彦太郎

明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。 美濃国の明智氏の支流の人物。一般に美濃の明智荘の明智城の出身と言われているが、他の説もある。 最初は、土岐氏に代わって美濃の国主となった斎藤道三に仕えた。道三と義龍の親子の争い(長良川の戦い)の結果、浪人となり、越前国の一乗谷に本拠を持つ朝倉義景を頼り、長崎称念寺の門前に十年ほど暮らし、このころに医学の知識を身に付ける。その後、足利義昭に仕え、さらに織田信長に仕えるようになった。 元亀2年(1571年)の比叡山焼き討ちへ貢献し、坂本城の城主となる。天正元年(1573年)の一乗谷攻略や丹波攻略にも貢献した。 天正10年(1582年)、京都の本能寺で織田信長を討ち、その息子信忠も二条新御所で自刃に追いやり(本能寺の変)信長親子による独裁政治に幕を引き天下統一に道筋を付けた。 その後、自らも織田信孝・羽柴秀吉らに敗れて討ち取られたとされるが、当時光秀の首を確認したという文献資料は残されていない(山崎の戦い)。
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毛利幸松丸

もうり こうまつまる(1515-1523)
登場回数:1作

毛利 幸松丸(もうり こうまつまる)は、戦国時代の人物。安芸国の国人毛利氏当主。毛利興元の嫡男。 大江広元の雲孫の来孫にあたる
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木下勝俊

きのした かつとし(1569-1649)
登場回数:1作

木下 勝俊(きのした かつとし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名、歌人。 初め龍野城主で、次いで若狭小浜城(後瀬山城)主で、官位が従四位下式部大夫、左近衛権少将であったので、通称を、式部大輔、若狭少将または若狭宰相という。龍野城主時代には龍野侍従ともいった。一時期はキリシタンでもあって洗礼名は「ペテロ」(ペドロ)と伝わる。歌人としては長嘯(ちょうしょう)または長嘯子(ちょうしょうし)、あるいは挙白(きょはく)、天哉爺(てんかおう)など様々の称を用いた。一般には木下長嘯子の名が高名。 関ヶ原の戦いでは東軍に属して伏見城留守居の将とされたが、鳥居元忠に退去を迫られ、これに従った結果、敵前逃亡したと戦後に責められて改易された。次いで父家定の備中足守藩を継いで第2代藩主となったが、異母弟利房と遺領を争って公儀の沙汰で所領没収とされた。以後、京の東山に隠棲して文人となった。作風は近世初期における歌壇に新境地を開いたものとされ、その和歌は俳諧師松尾芭蕉にも影響を与えた。
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木村友重

きむら ともしげ(1585-1654)
登場回数:1作
別名:木村助九郎

木村 友重(きむら ともしげ、天正13年(1585年) - 承応3年4月8日(1654年5月24日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての紀州藩の武士、剣豪。運籌流、柳生流(柳生新陰流)。 諱は友重、号は矩泰。幼名・通称の木村助九郎で知られる。柳生宗矩の門弟筆頭とされ、後世では柳生四天王に数えられた。
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矢田助武

やだ すけたけ(1675-1703)
登場回数:4作
別名:矢田五郎右衛門

矢田 助武 (やだ すけたけ、延宝3年(1675年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は五郎右衛門(ごろうえもん)。
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柳生俊方

やぎゅう としかた(1673-1730)
登場回数:1作

柳生 俊方(やぎゅう としかた、寛文13年1月3日(1673年2月19日) - 享保15年4月4日(1730年5月20日))は、大和柳生藩の第5代藩主。 柳生宗春(第4代藩主・柳生宗在の兄)の長男。母は九鬼久隆の娘。正室は亀井茲政の娘。継室は岩城重隆の娘。養子に柳生宗盈、柳生矩美、柳生俊平。官位は従五位下、備前守。 延宝4年(1676年)2月24日、早世した父・宗春の代わりに家督を継いだ叔父・宗在の養嗣子となった(その後生まれた宗在の実子は、三田藩主となった俊方の実弟・九鬼副隆の養嗣子・九鬼隆久となった)。 元禄2年(1689年)、宗在の死去により跡を継いだ。当初の諱は宗弘。享保元年(1716年)9月28日、俊方に改名した。 元禄6年(1693年)1月28日、幕府の奥詰衆に加えられる。享保15年(1730年)4月4日、58歳で死去した。墓所は東京都練馬区桜台の広徳寺と奈良県奈良市柳生町の芳徳寺。 俊方は3度にわたり養嗣子を迎えており、1人目の宗盈は廃嫡、2人目の矩美は早世し、3人目の俊平が跡を継いだ。これにより、柳生宗矩の直系は断絶した。 正徳2年(1712年)、村田伊十郎に柳生姓を授けた。伊十郎は柳生久寿と改名、子孫は旗本の家系となった。
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有馬晴信

ありま はるのぶ(1567-1612)
登場回数:2作

有馬 晴信(ありま はるのぶ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての大名。肥前国日野江藩初代藩主。有馬義貞の次男。キリシタン大名で、大村純忠は叔父に当たる。 大友義鎮(宗麟)からは偏諱を賜って初めは鎮純(しげずみ)、鎮貴(しげたか)を名乗っていた。 なお正純、正俊と名乗った一時期があったするが、史料的に裏付けるものはない。名乗りが確認されるだけでも四つ、正純や正俊も含めるとそれ以上の数になり、これはその地位の不安定さによるものとされている。のちに島津義久からの偏諱で久賢(ひさまさ)、そして足利義晴の偏諱を受けた祖父の有馬晴純から一字取って晴信に改名した。
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