偉人

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住谷寅之介

すみや とらのすけ(1818-1867)
登場回数:1作

住谷 寅之介(すみや とらのすけ)は、幕末の水戸藩士。水戸藩の尊王攘夷志士として活動した。
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レオポルド2世

れおぽるど2せい(1835-1909)
登場回数:1作

レオポルド2世(フランス語: Léopold II、1835年4月9日 - 1909年12月17日)は、第2代ベルギー国王(在位:1865年 - 1909年)。 初代ベルギー国王レオポルド1世の王太子として生まれ、1865年に父王の崩御に伴い即位。レオポルド2世の在位中、1884年までは自由党、それ以降はカトリック党が政権を担当していた。ベルギー経済は父王の代から引き続いて急速に成長を遂げたが、労働者階級の社会不安も増加。在位後半にはベルギー労働党が台頭したことで様々な社会改革が行われた。 即位前から植民地獲得に強い関心を持ち、他の列強の支配が及んでいないコンゴに目を付け、コンゴ国際協会を創設して探検を支援。先住民の部族長と協定を結ぶなどコンゴ支配の既成事実化を進めた。その結果、1884年のベルリン会議にてコンゴを私有地として統治することを列強から認められた(コンゴ自由国)。 コンゴにおける治世の初期は、鉄道敷設やアラブ人奴隷商人による奴隷狩りから黒人を守るなど、コンゴの近代化に努める面もあったが、先住民を酷使して天然ゴムの生産増を図り、イギリスなどから先住民に対する残虐行為を批判され、1908年にはコンゴをベルギー国家へ委譲することを余儀なくされた(王の私領からベルギー植民地への転換)。 1909年に崩御。嫡出子の男子がなく、甥のアルベール1世が王位を継いだ。
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平岡準

ひらおか じゅん(?-?)
登場回数:1作
別名:平岡四郎/平岡準蔵

平岡 準(ひらおか じゅん)は、幕末の旗本、静岡藩士。明治時代の官吏。維新後は四郎、退官後は準蔵と改名した。
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陳誠

ちん せい(1897-1965)
登場回数:1作

陳 誠(ちん せい / チェン・チョン)は、中華民国の政治家・軍人。国民革命軍陸軍一級上将。日中戦争と国共内戦における政府、軍、党の首脳部の一人で、胡宗南系、湯恩伯系と並ぶ中央軍三大派閥の一つ「土木系」を形成した。国共内戦後に台湾に移ってからは中華民国行政院院長、副総統を歴任した。蔣介石政権で土地改革計画立案を支援し、その業績は死後も評価されている。字は辞修。
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蒲寿庚

ほ じゅこう(?-?)
登場回数:1作

蒲 寿庚(ほ じゅこう、生没年不詳)は、中国南宋末から元初期の商人、軍人、政治家。アラブ系(またはペルシア系)イスラム教徒、元代の「色目人官僚」の嚆矢ともいえる人物。蒲寿晟の弟。 出自については、藤田豊八が1913年に『東洋学報』誌に発表した短いエッセイの中で、「蒲」姓がアラビア語の人名に多く見られる「アブー」(「父」の意)の音訳であることを指摘し、アラビア人であるとした。その後、桑原隲蔵が藤田とは別に詳細な研究を行い、『宋末の提挙市舶西域人蒲寿庚の事蹟』(1923年、のち『唐宋時代に於けるアラブ人の支那通商の概況殊に宋末の提挙市舶西域人蒲寿庚の事蹟』と改題)としてまとめている。一方、前嶋信次はアラビア人ではなくペルシア人だとする説を主張している。
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忠烈王

ちゅうれつおう(1236-1308)
登場回数:1作

忠烈王(ちゅうれつおう、1236年4月3日 - 1308年7月30日)は第25代高麗王(在位1274年 - 1298年、復位1298年 - 1308年)。 第24代高麗王元宗の子。諱は昛、初名は諶、賰、諡号は忠烈景孝大王。1260年に太子(世子)となり、1271年6月に元に婚姻の許諾を得て、クビライの公主忽都魯掲里迷失(クトゥルク=ケルミシュ)を娶り、翌年に帰国。再び元に戻り、元宗死後に再び帰国し、王位についた。 文永の役・弘安の役においては元に日本侵攻を進言し、兵力と経費を提供する とともに毎年元に莫大な貢物、人員等を頻繁に送り忠義を示した。これにより国内経済は疲弊し、これを憂いた臣下によって廃位となったが元の力により復位した。この後更に親元政策を貫き、胡服辮髪の令(1278年)を出すほか、以降の王は元の宮廷で育ち、忠宣王は「益知礼普花」(イジリブカ)、忠粛王は「阿剌忒訥失里」(アラトナシリ)、忠恵王は「普塔失里」(ブダシリ)というモンゴル風の名を持っている。
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阪谷芳郎

さかたに よしろう(1863-1941)
登場回数:1作

阪谷 芳郎(さかたに よしろう、文久3年1月16日(1863年3月5日) - 昭和16年(1941年)11月14日)は、日本の大蔵官僚、政治家。子爵、法学博士。備中国川上郡九名村(現井原市)出身。大蔵大臣、東京市長、貴族院議員などを歴任した。父親は阪谷朗廬。曾孫の橋本久美子は首相を務めた橋本龍太郎の妻である。
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阪谷希一

さかたに きいち(1889-1957)
登場回数:1作

阪谷 希一(さかたに きいち、1889年(明治22年)5月15日 - 1957年(昭和32年)11月6日)は、日本の華族、政治家。貴族院子爵議員、満州国総務庁次長。父親は元大蔵大臣で子爵の阪谷芳郎。
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北里柴三郎

きたざと しばさぶろう(1853-1931)
登場回数:1作

北里 柴三郎(きたざと しばさぶろう、1853年1月29日〈嘉永5年12月20日〉 - 1931年〈昭和6年〉6月13日)は、「近代日本医学の父」として知られる微生物学者・教育者。1889年(明治22年)に破傷風菌の純粋培養に成功、翌1890年(明治23年)に血清療法を開発、さらに1894年(明治27年)にペスト菌を発見し、「感染症学の巨星」と呼ばれる。 貴族院議員を務め、位階勲等は従二位・勲一等・男爵。医学博士、第1回ノーベル生理学・医学賞最終候補者(15名のうちの1人)、私立伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)創立者兼初代所長、土筆ヶ岡養生園(現・東京大学医科学研究所附属病院)創立者兼運営者、私立北里研究所、北里研究所病院(現・学校法人北里研究所)創立者兼初代所長ならびに北里大学学祖、慶應義塾大学部医学科(現・慶應義塾大学医学部)初代医学科学長、慶應医学会初代会長、慶應義塾大学病院初代病院長、日本医師会創立者兼初代会長。
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渡邊昇

わたなべ のぼり(1838-1913)
登場回数:1作
別名:渡辺昇

渡辺 昇(わたなべ のぼり 、天保9年4月8日(1838年5月1日) - 大正2年(1913年)11月10日)は、江戸時代末期の大村藩士、明治時代の政治家、また剣術家。元は諱を武常と名乗った。号は東民、其鳳。位階勲等は正三位勲一等。華族に列し、子爵に叙された。剣道の称号は範士。 肥前国大村に生まれる。江戸の神道無念流剣術道場・練兵館に入門し、桂小五郎の後を受けて塾頭を務める。尊王攘夷、倒幕運動の志士として活動し、坂本龍馬の依頼で薩長同盟を周旋した。明治政府では、大阪府知事、元老院議官、会計検査院長、貴族院議員を歴任した。また、大日本武徳会商議員を務め近代剣道の発展に尽力し、最初の剣道範士号を授与された。
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