偉人

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松平康英

まつだいら やすひで(1830-1904)
登場回数:3作

松平 康英(まつだいら やすひで)は、江戸時代後期の旗本・大名。江戸幕府外国奉行、神奈川奉行、大目付、勘定奉行、南町奉行を歴任した後に本家の大名家を相続、奏者番兼寺社奉行、老中となった。陸奥国棚倉藩の第4代藩主、武蔵国川越藩主。松井松平家12代。川越においては、城下宮下町に藩校長善館を開いた人物として知られる。旗本時代は松平 康直(まつだいら やすなお)で、本家相続後に康英と改名し、明治維新後に松井 康英と改名した。
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松平信綱

まつだいら のぶつな(1596-1662)
登場回数:3作
別名:松平長四郎

松平 信綱(まつだいら のぶつな)は、江戸時代前期の大名で武蔵国忍藩主、同川越藩藩主。老中。官職名入りの松平伊豆守信綱の呼称で知られる。
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松平武雅

まつだいら たけまさ(1702-1728)
登場回数:1作

松平 武雅(まつだいら たけまさ)は、江戸時代中期の大名。上野館林藩2代藩主。越智松平家2代。官位は従五位下・肥前守。
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照子女王

てるこじょおう(1625-1707)
登場回数:1作

照子女王(てるこじょおう、寛永2年(1625年) - 宝永4年2月26日(1707年3月29日))は、江戸時代前期から中期の女性。伏見宮貞清親王の王女で、紀州藩第2代藩主・徳川光貞の正室。幼称は安宮(やすのみや)。院号は天真院(てんしんいん)。妹に江戸幕府4代将軍・徳川家綱の正室である顕子女王、姪に8代将軍・徳川吉宗の正室である理子女王がいる。
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上杉定勝

うえすぎ さだかつ(1604-1645)
登場回数:1作

上杉 定勝(うえすぎ さだかつ)は、江戸時代前期の大名。出羽国米沢藩の第2代藩主。山内上杉家18代当主。
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常陸坊海尊

ひたちぼう かいそん(?-?)
登場回数:1作

常陸坊 海尊(ひたちぼう かいそん、生没年未詳)は、『源平盛衰記』『義経記』『平家物語』に登場する人物。園城寺または比叡山の僧であったとされる。
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織田信次

おだ のぶつぐ(?-1574)
登場回数:1作

織田 信次(おだ のぶつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏一族で、織田信長の叔父にあたる。通称は孫十郎。官位は右衛門尉を名乗った。
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新井領一郎

あらい りょういちろう(1855-1939)
登場回数:1作

新井 領一郎(あらい りょういちろう、安政2年7月19日(1855年8月31日) - 昭和14年(1939年)4月10日)は、日本の実業家、日米生糸貿易の創始者。旧姓名は星野良助。
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新野親矩

にいの ちかのり(1564-1565)
登場回数:1作

新野 親矩(にいの ちかのり)は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。遠江国新野新城(舟ケ谷城)主。
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深芳野

みよしの(?-?)
登場回数:2作

深芳野(みよしの/生没年不詳)は、戦国時代の女性。稲葉通則の娘で一鉄の姉とも、または一色左京大夫義清の娘ともされ、母は一色義遠の娘。『美濃国諸家系譜』によれば、土岐頼芸の愛妾でのちに斎藤道三の側室となったといわれる。斎藤義龍の母。斎藤喜平次も深芳野の子とも。 『美濃国諸家系譜』によれば、美濃国一の美女であったとされ、身長は六尺二寸(約187cm)もあったという。初め美濃守護・土岐頼芸の愛妾であったが、大永6年頃(1526年)"12月"、長井新左衛門尉の子長井規秀(のちの斎藤道三)に下贈され、規秀の側室となる。大永7年6月10日(1527年7月8日)に20歳で豊太丸(のちの斎藤義龍)を産む。 一説に、道三が深芳野を拝領する前から土岐頼芸の子を懐妊していたとされ、子の義龍は落胤とされるが、江戸時代に編纂された『美濃国諸家系譜』の記述であるため定かではない。 木下聡は、深芳野は江戸時代に、斎藤義龍が父の道三を討ったのは実の父が土岐頼芸だったからだという物語のためにこしらえられた架空の人物だとしている。
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