偉人

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村松高直

むらまつ たかなお(1677-1703)
登場回数:4作
別名:村松三太夫

村松 高直(むらまつ たかなお、延宝5年(1677年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は三太夫・ 三大夫(さんだゆう)。
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待賢門院堀河

たいけんもんいんのほりかわ(?-?)
登場回数:1作

待賢門院堀河(たいけんもんいんのほりかわ、生没年不詳)は、平安時代後期の歌人。この女房名の前に前斎院六条(さきのさいいんのろくじょう)と呼ばれていた一時期もある。女房三十六歌仙・中古六歌仙の一人。父は神祇伯 源顕仲。姉妹に、顕仲卿女(重通妾)、大夫典侍、上西門院兵衛がいる。
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大角与左衛門

おおすみ よざえもん(?-?)
登場回数:1作

大角 与左衛門(おおすみ よざえもん、生没年不詳)は、江戸時代初期、豊臣秀頼の代の大坂城にて台所頭を務めた人物。大道寺友山『駿河土産』において言及され、それを引いた『徳川実紀』にも記述がある。姓は同音の大隅に、与左衛門も与右衛門とする書籍もある。
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大久保忠鎮

おおくぼ ただしげ(1638-1711)
登場回数:1作
別名:大久保権右衛門

大久保 忠鎮(おおくぼ ただしげ、寛永15年(1638年) - 正徳元年9月20日(1711年10月31日))は、江戸幕府の旗本。幕府目付。通称は権左衛門(ごんざえもん)。浅野長矩の刃傷の際に吉良義央への取調べにあたり、また長矩の切腹の副検死役をつとめた。
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大高重成

おおたか しげなり(?-1362)
登場回数:1作

大高 重成(おおたか しげなり、生年不詳 - 貞治元年/正平17年(1362年))は、南北朝時代の武将。高氏の一族である小高重長の子だが、父を南頼基とする説もある。高師氏の甥で、高師直の父の従兄弟。通称次郎、法名は法智あるいは禅勇。官途は伊予守。臨済宗の高僧夢窓疎石と室町幕府草創期の実質的指導者足利直義の対話を記録した『夢中問答集』を出版。武威に優れ、『太平記』では五尺六寸の大太刀を振るって奮戦する姿が描かれている。
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大石吉之進

おおいし きちのしん(1691-1709)
登場回数:4作
別名:大石吉千代

大石 吉之進(おおいし きちのしん、元禄4年(1691年) - 宝永6年3月1日(1709年4月10日))は、江戸時代中期の武士、僧。名は良以(よしもち)。通称の吉之進は書状によって吉千代(きちちよ)となっているものもある。僧名は元快(げんかい)。 元禄4年(1691年)、赤穂藩筆頭家老大石良雄とその妻りくの次男として赤穂の大石邸で生まれる。元禄14年(1701年)、赤穂藩改易後、遠林寺で藩政残務処理にあたる父良雄は、事が落ち着くまで5月11日に妻のりくや子の良金・吉之進・くう・るり達を但馬国豊岡の石束毎公のもとに送った。同年7月に大石が京都の山科に住居を落ち着けると、妻子も山科へ移ったが、吉之進だけは豊岡に留めおかれた。 その後、元禄15年(1702年)4月頃に討ち入りに加わる決意をした兄・良金を除き、討ち入りに連座しないように絶縁された母達が豊岡に戻ってきた。吉之進も連座しないようにするためか、同年10月に豊岡の城崎郡竹野村須谷の円通寺に滞在していた大休(元南禅寺和尚)に弟子入りして仏門に入り、祖錬元快と称した。その後、豊岡の興国寺の雪村のもとに移ったが、宝永6年(1709年)3月1日に死去した。享年19。姉くうと同じ豊岡の正福寺に葬られた。
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大谷茂次郎

おおたに しげじろう(?-?)
登場回数:1作

大谷 茂次郎(おおたに しげじろう、生没年不詳)は、幕末の土佐藩士、朱子学者。 文政12年(1829年)講習勤並通鑑綱目会頭を命じられ、以降、天保5年(1834年)教授役、天保7年(1836年)藩主相手役、文久元年(1861年)文村司業且小目付を歴任する。一方で、文政12年に土佐郡小高坂村越前町に漢学習字の私塾を開いており、息子の謙作と共に経営した。塾では四書五経と歴史の講義を行っており、天保10年(1839年)頃に最盛期を迎えたと記録されている。没年は不詳だが、私塾は文久2年(1862年)に閉塾している。
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大木喬任

おおき たかとう(1832-1899)
登場回数:2作

大木 喬任(おおき たかとう、1832年4月23日(天保3年3月23日) - 1899年(明治32年)9月26日)は、明治期の日本の官僚、政治家。通称を幡六、民平。 栄典は正二位勲一等伯爵。
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鷹司孝子

たかつかさ たかこ(1602-1674)
登場回数:3作

鷹司 孝子(たかつかさ たかこ、慶長7年(1602年)5月 - 延宝2年6月8日(1674年7月11日))は、江戸幕府第3代将軍・徳川家光の正室(御台所)。 通称「中の丸様」。院号は本理院(ほんりいん)。墓所は無量山 傳通院。 父は関白・鷹司信房、母は佐々成政の娘・輝子(岳星院)。兄に関白・鷹司信尚、弟に鷹司信平(鷹司松平家の祖・松平信平)。妹に浄土真宗本願寺派・第14代宗主 大谷寂如の妻、貞淑院如瑞がいる。家光の息子である5代将軍徳川綱吉の正室の鷹司信子は信尚の孫であり、孝子の姪孫にあたる。
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沢辺琢磨

さわべ たくま(1834-1913)
登場回数:1作

沢辺 琢磨(さわべ たくま、天保5年1月5日(1834年2月13日) - 大正2年(1913年)6月25日)は、日本ハリストス正教会初の正教徒(ハリスチャニン=クリスチャン)にして最初の日本人司祭である。聖名(洗礼名)はパウェル(パウロ)。沢辺姓を名乗る前は山本琢磨。
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