偉人

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真田昌輝

さなだ まさてる(1543-1575)
登場回数:1作

真田 昌輝(さなだ まさてる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。甲斐武田家の家臣。 甲斐武田家の騎馬50騎持の侍大将。真田幸綱(幸隆)の次男。同母兄に信綱、同母弟に昌幸、信尹らがいる。幼名を徳次郎。兵部丞、兵部少輔。名は信輝とも。武田二十四将にも数えられる。長篠の戦いで奮戦するも戦死した。
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神崎則休

かんざき のりやす(1666-1703)
登場回数:4作
別名:神崎与五郎

神崎 則休(かんざき のりやす、寛文6年(1666年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は与五郎(よごろう)。本姓は源氏。家紋は蛇の目。大高忠雄・萱野重実と並んで浅野家中きっての俳人として知られた。赤穂浪士の中でも随一の酒豪で「燗酒よかろう」という渾名が伝わっている。
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仁木義長

にっき よしなが(?-1376)
登場回数:1作

仁木 義長(にき よしなが、生年不詳 - 天授2年/永和2年9月10日(1376年10月23日))は、室町時代前期(南北朝時代)の武将。通称は仁木次郎四郎。越後守、右馬権頭、修理亮、右馬助、右京大夫。父は仁木義勝。子は仁木義員、仁木満長。兄に仁木頼章がいる。
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水野信元

みずの のぶもと(?-1576)
登場回数:4作
別名:水野忠次

水野 信元(みずの のぶもと)は、戦国時代の大名。水野忠政の次男。母は松平信貞(昌安)の女。初名は忠次。通称は藤四郎(藤七郎)。受領名は下野守。妻は松平信定の女。
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杉原家次

すぎはら いえつぐ(1530-1584)
登場回数:2作

杉原 家次(すぎはら いえつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。羽柴秀吉の家臣。丹波福知山城および近江坂本城主。
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雀部重政

ささべ しげまさ(1559-1595)
登場回数:2作

雀部 重政(ささべ しげまさ)は、安土桃山時代の武士。豊臣秀次の家臣。雀部 淡路守(ささべ あわじのかみ)、蒔田 淡路守(まいた あわじのかみ)としても知られる。
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正親町三条公兄

おおぎまちさんじょう きんえ(1494-1578)
登場回数:1作

正親町三条 公兄(おおぎまちさんじょう きんえ)は、室町時代後期(戦国時代)の公卿。官位は正二位・内大臣。
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清原武衡

きよはら の たけひら(?-1087)
登場回数:1作

清原 武衡(きよはら の たけひら、生年未詳 - 寛治元年11月14日(1087年12月11日))は、平安時代後期の陸奥国・出羽国の武将。父は鎮守府将軍清原武則、母は安倍頼清の娘と伝えられる。武貞の弟。義理の兄弟に吉彦秀武がいる。通称は将軍三郎、岩城三郎。
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聖弘

しょうこう(?-?)
登場回数:1作

聖弘(しょうこう、生没年未詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の興福寺の僧。塔頭の勧修坊を住坊とした。 聖弘得業、周防得業(すおうのとくごう)聖弘とも称される。 『吾妻鏡』によれば、文治2年(1186年)2月、源頼朝と対立し、都を落ちのびた源義経を匿った事により、翌文治3年(1187年)3月8日、鎌倉に召し出されて頼朝の尋問を受ける。 聖弘は義経と師檀の関係であり、平家追討の際には義経の依頼によって祈祷を行っていた。その縁により都落ちの際に南都に逃れてきた義経を一時匿い、頼朝と和解するように諫めて下法師らを付けて伊賀国へ送り出し、その後は音信不通となったという。 謀反人の義経を匿い、祈祷を行った事を詰問する頼朝に対し、聖弘は師弟のよしみで頼ってきたので迎え入れたものであり、祈祷は義経を諫めて逆心をなだめるもので、何ら罪になるものではないと答えた。また、そもそも今の関東の安全は義経の武功によるものであり、讒言によりその奉公を忘れ、恩賞の地を取り上げれば逆心を抱くのは当然であり、予州(義経)を召し返して兄弟で水魚の交わりをする事が国を治める方法というものである。これは義経を弁護するものではなく、天下静謐を求めてのことであると答えた。 この聖弘の態度に感心した頼朝は、勝長寿院の供僧職を与え、関東繁栄の祈祷を行うよう命じている。 『玉葉』によれば、文治5年(1189年)12月には在京している。『義経記』には勝長寿院縁起物語として「勧修坊(かんしゅうぼう)物語」が描かれ、勧修坊(聖弘)が勝長寿院の別当、あるいは開基として語られている。
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西郷隆盛

さいごう たかもり(1828-1877)
登場回数:14作
別名:西郷吉之助

西郷 隆盛(さいごう たかもり、旧字体:西鄕 隆盛、1828年1月23日(文政10年12月7日)- 1877年(明治10年)9月24日)は、幕末から明治前期の日本の武士、政治家、陸軍軍人。 薩摩国薩摩藩の下級藩士・西郷吉兵衛隆盛の長男。諱は元服時に隆永(たかなが)のちに武雄・隆盛(たかもり)と名を改めた。幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助と順次変更。号は南洲(なんしゅう)。隆盛は父と同名であるが、これは王政復古の章典で位階を授けられる際に親友の吉井友実が誤って父・吉兵衛の名で届け出てしまい、それ以後は父の名を名乗ったためである。一時、西郷三助・菊池源吾・大島三右衛門・大島吉之助などの変名も名乗った。
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