基本情報
駒井朝温(こまい ともあつ、文政6年(1823年) - 明治29年(1896年))は、幕末の旗本(領地は上野国連取等)。父は駒井兜十郎。官位は、従五位下山城守、甲斐守。玉虹と号する。 西丸目付、本丸目付等を務めた。万延元年(1860年)3月4日、老中松平乗全、若年寄遠藤胤統、寺社奉行本庄宗秀、大目付久貝正典、江戸町奉行池田頼方、勘定奉行山口直信とともに桜田門外の変において吟味掛となった。同年12月大目付となる。文久2年(1862年)8月24日小姓組番頭となった。同年11月、井伊直弼のもと安政の大獄に関わったとして職を免じられた。元治元年(1864年)6月29日に歩兵頭となり、同年7月21日大目付に復し同年8月11日勘定奉行となり、12月19日再び大目付となり、その後講武所奉行並となる。慶応元年5月11日歩兵奉行となり6月19日迄務めた。慶応元年11月2日再び勘定奉行となり、慶応2年(1866年)7月3日大目付となり、慶応3年1月19日より陸軍奉行並となり1月28日迄務めた。慶応4年(1868年)3月、江戸幕府終焉とともに公職を去った。明治29年に73歳で死去した。 駒井朝温の次男小栗忠道は小栗忠順の養子で、小栗忠順が斬首された翌日に上野国高崎で斬首された。三男の小栗忠祥は忠順の遺児国子が成人し結婚する迄小栗家を継いでいる。
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