慶月院
けいげついん(?-1671)
登場回数:1作
慶月院(けいげついん)は、寛文11年3月27日(1671年5月6日)、大老酒井忠清邸で刃傷沙汰(寛文事件)を起こした、世に言う伊達騒動の主謀者の一人である原田宗輔の母。名は津多(つた)。 慶月院の母は香の前(お種殿)である。元は豊臣秀吉の愛妾で、諸説あるが秀吉から伊達政宗に下賜され、慶長3年(1598年)に慶月院(津多)、慶長5年(1600年)に亘理宗根(又治郎)を産み、のちに茂庭綱元の側室となった。慶月院は柴田郡船岡城主の原田宗資に嫁いで、宗輔と娘2人をもうけた。 寛文事件の後、原田家の男子は養子に出された者や乳幼児全て切腹、斬首の死罪で一家断絶となった。女子もお預けの身となる厳しい処罰が下される。慶月院も亘理伊達家の伊達基実に預けられ、息子が犯したことで名門原田家が断絶したことを嘆き、舌を噛み切って自害しようとしたが、老齢から噛み切れず、絶食して五十数日後、同年7月に亘理伊達家の屋敷にて失意のうちに享年74で亡くなった。 墓は亘理伊達家の菩提寺である大雄寺住職の隠居寺陽林庵の一隅に、墓碑の代わりに大きな石が置かれているだけである。現在の墓の場所は宮城県亘理郡亘理町長瀞(ながとろ)字夜討坂にある。