偉人

偉人

栗原安秀

くりはら やすひで(1908-1936)
登場回数:1作

栗原 安秀(くりはら やすひで、1908年(明治41年)11月17日 - 1936年(昭和11年)7月12日)は、日本の陸軍軍人、国家社会主義者。1936年2月26日に勃発した二・二六事件に参加した。磯部浅一に並ぶ急進派として知られる。最終階級は歩兵中尉。陸軍士官学校第41期歩兵科出身。
偉人

結城宗広

ゆうき むねひろ(1266-1339)
登場回数:1作

結城 宗広(ゆうき むねひろ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。白河結城氏2代当主。
偉人

原マルティノ

はら マルティノ(1569-1629)
登場回数:2作

原 マルティノは、安土桃山時代から江戸時代初期にかけてのキリシタン。イエズス会員でカトリック司祭。マルチノ、またはマルチィノとも。天正遣欧少年使節の副使で、使節の少年4人の中では最年少であったが、語学に長け、ローマからの帰途のゴアでラテン語の演説を行い有名になる。
スポンサーリンク
偉人

減敬

げんきょう(?-?)
登場回数:1作

減敬(げんきょう、生没年不詳)は、戦国時代後期の医師とされる人物。滅敬(めっけい)とする記述もある。
偉人

源兼綱

みなもと の かねつな(?-1180)
登場回数:1作

源 兼綱(みなもと の かねつな)は、平安時代末期の武将。丹後守源頼行の次男(あるいは三男、五男)。源頼政の養子。
偉人

源頼家

みなもと の よりいえ(1182-1204)
登場回数:2作
別名:万寿

源 頼家(みなもと の よりいえ)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府第2代将軍(鎌倉殿)。鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡男で母は北条政子(頼朝の子としては第3子で次男、政子の子としては第2子で長男)。 父・頼朝の死により18歳で家督を相続し、鎌倉幕府の第2代鎌倉殿、更に3年半後に征夷大将軍となる。母方の北条氏を中心として十三人の合議制がしかれ、頼家の独断は抑えられたとされるが、当事者である北条氏の史書の記録のみでしか、確認できていない。 合議制成立の3年後に頼家は重病に陥ったとされ、頼家の後ろ盾である比企氏と、弟の実朝を担ぐ北条氏との対立が起こり、北条氏一派の攻撃により比企氏は滅亡した。頼家は将軍職を剥奪され、伊豆国修禅寺に幽閉された後、暗殺された。頼家追放により、北条氏が鎌倉幕府の実権を握ることになる。
偉人

古内義如

ふるうち よしゆき(1631-1673)
登場回数:1作

古内 義如(ふるうち よしゆき、寛永8年〈1631年〉 - 寛文13年6月12日〈1673年7月25日〉)は、江戸時代前期の仙台藩伊達家の家臣。仙台藩奉行。通称は志摩。家格は着座。
偉人

後花園天皇

ごはなぞのてんのう(1419-1471)
登場回数:1作
別名:彦仁/後花園上皇

後花園天皇(ごはなぞのてんのう、1419年7月10日〈応永26年6月18日〉- 1471年1月18日〈文明2年12月27日〉)は、日本の第102代天皇(在位:1428年9月7日〈正長元年7月28日〉- 1464年8月21日〈寛正5年7月19日〉)。諱は彦仁(ひこひと)。 本来は皇統を継ぐ立場にはなかったが、傍系で三従兄弟にあたる称光天皇が嗣子を残さず崩御したため、皇位を継いだ。先帝とは8親等以上離れた続柄での皇位継承は南北朝合一を除くと53代(称徳天皇→光仁天皇)以来658年ぶりであり、かつ南北朝合一時の「明徳の和約」(皇位は両統迭立とする)にも反するため、旧南朝勢力の激しい反発を招き、以後、約60年にわたって南朝復興運動(いわゆる「後南朝」)が繰り広げられる引き金になった。
偉人

御堀耕助

みほり こうすけ(1841-1871)
登場回数:2作
別名:太田市之進

御堀 耕助(みほり こうすけ)は、幕末期の長州藩士。前名:太田市之進。御楯隊総督。諱は直方。
偉人

広橋兼勝

ひろはし かねかつ(1558-1623)
登場回数:1作

広橋 兼勝(ひろはし かねかつ)は、安土桃山時代、江戸時代初期の公家、歌人。藤原北家日野流。兄が本家筋の日野家を継いだことで兼勝が広橋家の嫡子(跡取)となった。号は後是称院。一字名は貢。法名は快寂。官位は従一位・内大臣。勧修寺光豊とともに江戸幕府初代の武家伝奏(慶長8年(1603年) - 元和5年(1619年))。
スポンサーリンク