偉人

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大岡忠種

おおおか ただたね(1611-1684)
登場回数:1作

大岡 忠種(おおおか ただたね)は、江戸時代前期の旗本。大岡忠行家2代当主。大岡忠世の長男。同名の孫がいる。
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大久保忠常

おおくぼ ただつね(1580-1611)
登場回数:1作

大久保 忠常(おおくぼ ただつね)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。武蔵国騎西藩の初代藩主。相模国小田原藩主・大久保忠隣の長男。通称は新十郎。官位は従五位下・加賀守。
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大隈重信

おおくま しげのぶ(1838-1922)
登場回数:7作

大隈 重信(おおくま しげのぶ、1838年3月11日〈和暦:天保9年2月16日〉- 1922年〈大正11年〉1月10日)は、日本の政治家。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵。菅原姓。 参議、大蔵卿、内閣総理大臣(第8・17代)、外務大臣(第3・4・10・13・28代)、農商務大臣(第11代)内務大臣(第30・32代)、枢密顧問官、貴族院議員。報知新聞経営者(社主)。聖路加国際病院設立評議会会長。同志社大学社友。 政党内閣制を基軸にした即時国会開設を主張するなど議会制推進。早稲田大学を創設し官学に匹敵する高等教育機関を育成するために力を注いだ教育者。
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松平忠政

まつだいら ただまさ(1541-1599)
登場回数:1作
別名:勘六

松平 忠政 (まつだいら ただまさ)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。徳川家康の異母兄とされる。同母弟に僧侶の樵臆恵最がいる。ただし『寛政重修諸家譜』は伝承に否定的な考証を行っている。
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大沢基胤

おおさわ もとたね(1526-1605)
登場回数:1作

大沢 基胤(おおさわ もとたね)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。今川氏、次いで徳川氏の家臣。官位は左衛門佐。
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大内義隆

おおうち よしたか(1507-1551)
登場回数:1作

大内 義隆(おおうち よしたか)は、戦国時代の武将、守護大名・戦国大名。周防国の在庁官人・大内氏の第16代当主 。 第15代当主・大内義興の嫡男。母は正室の内藤弘矩の娘。周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前の守護を務めた。官位は従二位兵部卿兼大宰大弐兼侍従。また、義隆の時代には大内文化が爛熟し、西国の地方政権大内政権を築いて大内家は領土的に全盛期を迎えた。しかし、文治政治に不満を抱いた家臣の陶隆房に謀反を起こされ、義隆と一族は自害して、大内家は事実上滅亡した。
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大林貞次

おおばやし さだつぐ(?-?)
登場回数:1作

大林 貞次(おおばやし さだつぐ、生没年不詳)は、戦国時代の武将。通称勘左衛門。父は大林貞光。 大林氏は奥平氏の分家筋であり、父の代から大林氏を名乗ったという。兄に秀光がいる。 三河国牛窪城主・牧野成勝の家老。武将としての活動は定かではないが、山本勘助を養子にしていたことで知られる。文書によると実子がなかったので、縁のある山本貞幸の四男・源助(後の勘助)を養子にとり、勘助が成人して各国を放浪している頃に実子(名は貞則か)が誕生したため、勘助を廃嫡したという。
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瀧山

たきやま(1805-1876)
登場回数:2作

瀧山(滝山:たきやま、文化2年(1805年) - 1876年(明治9年)1月14日)は、江戸幕府13代将軍徳川家定・14代家茂時代の将軍付御年寄で、最後の御年寄である。御鉄砲百人組・大岡義方の娘。名は多喜とも。同じころに大奥勤めをしていたませは姪にあたる。また勝海舟の母・信の従姉妹でもある。
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丹羽長秀

にわ ながひで(1535-1585)
登場回数:14作
別名:惟住長秀

丹羽 長秀(にわ ながひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。織田氏の宿老であり、主君・織田信長に従い、天下統一事業に貢献した。朝廷より惟住(これずみ)の姓を賜ったので、惟住長秀ともいう。
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池田寅之進

いけだ とらのしん(?-1861)
登場回数:2作

池田 寅之進 (いけだ とらのしん) とは、幕末の土佐藩士。 文久元年 (1861年) 3月4日の夜、弟の中平忠次郎が上士の山田広衛と益永繁斎に殺害されたと友人の宇賀喜久馬に知らされ、現場の土佐国井口村 (現:高知県高知市井口町) 永福寺門前へ行くとその場にいた2人を殺害した。この井口村刃傷事件で上士と下士の対立が起こったため、責任を取ってその日のうちに切腹した。享年不詳だが、若かったと伝えられている。
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