武田勝頼

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武田家

基本情報

武田 勝頼(たけだ かつより) / 諏訪 勝頼(すわ かつより)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての甲斐国の戦国大名。甲斐武田家第17代当主。 通称は四郎。当初は母方の諏訪氏(高遠諏訪氏)を継いだため、諏訪四郎勝頼、あるいは信濃国伊那谷の高遠城主であったため、伊奈四郎勝頼ともいう。または、武田四郎、武田四郎勝頼とも言う。「頼」は諏訪氏の通字で、「勝」は信玄の幼名「勝千代」に由来する偏諱であると考えられている。父・信玄は足利義昭に官位と偏諱の授与を願ったが、織田信長の圧力によって果たせなかった。そのため正式な官位はない。信濃への領国拡大を行った武田信玄の庶子として生まれ、母方の諏訪氏を継ぎ高遠城主となる。武田氏の正嫡である長兄武田義信が廃嫡されると継嗣となり、元亀4年(1573年)には信玄の死により家督を相続する。 強硬策を以て領国拡大方針を継承するが、天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍に敗退したことを契機に領国の動揺を招き、その後の上杉氏との甲越同盟、佐竹氏との甲佐同盟で領国の再建を図り、織田氏との甲江和与も模索し、甲斐本国では躑躅ヶ崎館より新府城への本拠地移転により領国維持を図るが、織田信長の侵攻である甲州征伐を受け、天正10年(1582年)3月11日、嫡男・信勝とともに天目山で自害した。これにより平安時代から続く戦国大名としての甲斐武田氏は滅亡した。 近世から近現代にかけて神格・英雄化された信玄との対比で、武田氏滅亡を招いたとする否定的評価や、悲劇の当主とする肯定的評価など相対する評価がなされており、武田氏研究においても単独のテーマとしては扱われることが少なかったが、近年では新府城の発掘調査を契機とした勝頼政権の外交政策や内政、人物像など多様な研究が行われている。

名前武田勝頼
よみたけだ かつより
性別男性
生年1546年
没年1582年
別名義諏訪勝頼

血縁情報

配偶者
子供
兄弟

ランキング

登場作品
10位/21位
12回
配役数
9位/26位
18人
演者平均
276位/395位
27.6歳
寿命
66位/102位
36歳

出演情報

渡辺文雄

太閤記(1965年)

渡辺文雄

出典:NHK

藤堂新二

徳川家康(1983年)

藤堂新二

出典:NHK

安藤壮洋

武田信玄(1988年)

安藤壮洋

出典:NHK

福原学

武田信玄(1988年)

福原学

出典:NHK

真木蔵人

武田信玄(1988年)

真木蔵人

出典:NHK

北谷等

信長(1992年)

北谷等

出典:NHK

黒田崇矢

信長(1992年)

黒田崇矢

出典:NHK

斉藤圭祐

風林火山(2007年)

斉藤圭祐

出典:NHK

池松壮亮

風林火山(2007年)

池松壮亮

出典:NHK

市川笑也

天地人(2009年)

市川笑也

出典:NHK

平岳大

真田丸(2016年)

平岳大

出典:NHK

奥野瑛太

おんな城主 直虎(2017年)

奥野瑛太

出典:NHK

眞栄田郷敦

どうする家康(2023年)

眞栄田郷敦

出典:NHK

タイトル役者/年齢役名/出演回数
1965年渡辺文雄 武田勝頼
太閤記当時35歳5回/全52回
1969年中村梅雀武田勝頼
天と地と当時13歳2回/全52回
1969年小川吉信武田勝頼
天と地と当時25歳2回/全52回
1973年石山輝夫武田勝頼
国盗り物語当時30歳5回/全51回
1983年藤堂新二武田勝頼
徳川家康当時27歳6回/全50回
1988年安藤壮洋武田勝頼
武田信玄-2回/全50回
1988年福原学武田勝頼
武田信玄当時9歳2回/全50回
1988年真木蔵人武田勝頼
武田信玄当時15歳14回/全50回
1992年北谷等武田勝頼
信長-1回/全49回
1992年黒田崇矢武田勝頼
信長当時26歳2回/全49回
2007年斉藤圭祐武田勝頼
風林火山-2回/全50回
2007年本川嵐翔武田勝頼
風林火山-1回/全50回
2007年池松壮亮武田勝頼
風林火山当時16歳5回/全50回
2009年市川笑也武田勝頼
天地人当時49歳5回/全47回
2011年久松信美武田勝頼
当時48歳1回/全46回
2016年平岳大武田勝頼
真田丸当時41歳3回/全50回
2017年奥野瑛太武田勝頼
おんな城主 直虎当時30歳4回/全50回
2023年眞栄田郷敦武田四郎勝頼
どうする家康当時22歳11回/全43回

関連するできごと

できごと年代
二俣城の戦い1572年
三方ヶ原の戦い1573年
高天神城の戦い1574年
長篠の戦い1575年
高天神城の戦い1581年
天目山の戦い1582年

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